『明月記』『沙石集』『吾妻鏡』において当時の北条泰時の状況と『御成敗式目』を用いた裁決の記述が残されている。『明月記』において藤原定家は、寛喜二年(1230)十月十六日には鎌倉幕府は食糧不足に備えて、毎日の食べ物の量を削減するように指示したと泰時の記事を記している。年が明けた寛喜三年には、関東にいる者に対して贅沢禁止令が発せられた。泰時自身においては畳、衣装、烏帽子等を新しく作ることを避け、夜は灯火を用いず昼食は抜き、酒宴や遊行も取りやめ、御家人たちの華美な服装なども禁止している。また、『明月記』において定家は、泰時の徹底した贅沢を無くした生活について特に食事の事について、「病にあらずといえども、在命し難し」と、大変粗食であった事を記している。飢餓を根底から解決する施策ではないが、泰時自身が率先して贅沢禁止を行っていることが泰時の心情であろう。
北条泰時の訴訟における説話が『沙石集』に記されている。鎌倉中期に無住により著された説話集のため事実かどうかは不明であるが、泰時の人となりを伝えている。『沙石集』巻第三(二)門注に我と負けたる人事。
「下総の国の主等が領家と争論した。両家の言い分を聞いた地頭は、はたと手を打って泰時に向かい「負けました」といった泰時は「見事な負けっぷりだ。明らかに敗訴と分かっても、一言でも弁解するのが普通だが、自分で敗訴を承認された貴殿は立派な正直者だ。執権として長い間裁判をやってきたが、こんなに嬉しい事は初めてだと涙ぐみ感心した。領家の法でも六年間の年貢未進を三年分に軽減した。」。また、「鎮西に、ある国の地頭、世間不調にして(世渡りの才無く)、所領を分かち売りけるを、嫡子なりける者、世間賢く貧しからぬ者にて、この所領を書いて、父に知らせる事(治めさせる、領有させる事)、度々になりぬ。さて、かの父死して後、かの嫡子には譲らずして、。次男にさなから跡を(全部の遺領)譲りける。嫡子鎌倉に登りて訴訟す。弟召し上らせて対決に及ぶ。この事ともにその謂(いわ)れ有。(泰時は)兄不便に思われけ共、弟譲文を手に握りて申しあぐ。おしても成敗なくして(直ちにには判決せずに)、明法の家に尋ねられる。法家に勘次申さく(法曹官僚が答申するには)、「もと嫡子たり。また(幕府に)奉公ありといえども、子供として仕うるには、孝養の義なり。奉公は他人にとりての事なり。しからば父に既に子細あればこそ、弟に譲り候けめ。されば弟が申すところ、その道理有」と申し上げる上は、弟安堵の下文(相続承認の公文書)給わりて下りにけり」。その後、説話は続き、泰時はこの兄が事を不憫に思い、闕所(けっしょ:荘園領主等が罪を犯して所領を没収された地に、新領主が決まっていない領地)があれば与えようと思い、我が内に置きて、衣食を与えた。ところが兄はある女性と結婚し、貧しいながらも愛情に満ちた生活を送った。その中に兄の本国に父の遺領よりも大きい闕所があったので、泰時はこれを与た。、この兄は「このニ・三年妻にわびしい目ばかりさせておりますので拝領地に連れて行き食事も存分に食べさせ、いたわってあげたいと思います」とい・うので泰時は感心して旅のために馬や鞍まで与えた。互いの主張する道理において、泰時は『式目』での裁決を弟の勝訴を下すが、兄の道理においても人間的な配慮を下している。
『吾妻鏡』において『式目』における裁決を記する物があるので見てみよう。
嘉禎元年(1235)八月二十一日条、「加藤七郎左衛門尉景義と兄・加藤判官朝影の伊豆国狩野庄内の牧郷地頭職に関する相論について、裁決が行われた。兄は南方の末席に召され、舎弟は同じく北に向かい合って座った。図書允(ずしよのじょう)斎藤清時が奉行として事情を問われた。景義が訴え申した。「当郷は叔父故伊勢前司(加藤)光員の所領で、承久三年五月三十日に亡き父(加藤)景廉が拝領しました。ただし仰せによって暫く伯父覚蓮に領地されていたものです。覚蓮が亡くなった後は、景廉の契約上通りに景義が知行すべきところ、影朝が義絶された身を顧みず、好き勝手に押領を企てています。早く究明して返されますよう」。景朝雅弁明して申した。「当郷は二位家(北条政子)の御時に景朝が相伝するようにと兼ねてから御書を頂いている上は、知行に何の問題がありましょうか。亡き父(景兼)に義絶されたと言う事は景義の虚言です。過言の罪に処してください」。評定が凝らされ、景義が申すことに道理があると衆議が一致した。そうしたところ景朝は、二位家(政子)が遺された御書を進覧した。「狩野牧については、覚蓮房の後は景朝に与えるように。」との明確な内容に随い景朝に付された。政子御時の御教書を捨て置かれるのは、おそれがあると泰時朝臣が申し立てたので、景朝を補任されるよう、すぐに御下文に記されたという」。
延応元年(1236)十一月五日条、「薩摩与一(小鹿島)公員と伊豆前司(若槻頼定とが相論している出羽国秋田郡湯河湊について、今日、(頼経の)御前で対決が行われた。散位(三善)康連が奉行した。(湯川湊は)公員に付けられたという。頼定は妻女の父の遺領と申したという。」。若槻頼定は小鹿島公業の娘・薬上(くすのうえ)を妻室としており、公員の父公業は、この地を娘・薬上に譲っている。しかし薬上は父に不幸であった上に、この年の四月に父に先立って亡くなった。そのために公業は薬上への譲与を取り消し、改めて公員に譲った。しかし、薬上は生前に政子の承認を得ていたばかりか、寛喜三年(1231)にも幕府の下文を得ていたので、頼定は式目十七条の不易の法を用い、薬上の子息に相続権があると主張した。公員は式目十八条にて、親が所領を子女に譲った後に不和になればそれを解消して他の者に与える悔返権(くいかえしけん)があるとし、二十条に所領の讓状を得た子が、親に先立ち死んだ場合も、親はその譲与を悔返すことができると主張した。二十六条に親が所領権を故に譲って将軍から認証された後でも、所領悔返して他の子息に譲ることができ、その場合は後に作成した譲状が法的効力を持つ点を用いた。頼定の用いた式目七条は本主と現在の給人との関係を規定したもので、親子の関係には適応できないとし、式目二十六条の規定に基づき、公員の勝訴とした。この相論の裁許上の案文が小鹿島文書に伝来している(『鎌倉遺文』五四九六号)。
『吾妻鏡』仁治二年(1241)三月二十五日条、「甲斐の左衛門尉幸氏と武田伊豆入道光蓮(信光)とが相論している上野国三原庄と信濃国長倉保の境について、幸氏の訴えに道理があるので式目に従い押領の分限を加えて(幸氏に)引き渡すよう、伊豆前司(若槻)頼貞・布施左衛門尉康高らによくよく命じられた。この事で確執の余りに光蓮が遺恨に思い、一族や朋友らを語らって、前武州(北条泰時)に対して宿意を遂げようとしているとの噂があったので、再び詳細に審議が行われたが、やはり先の通りであった。泰時が人々に語られた。「人の恨みを気にしてその理非を明らかにしないようなら、政道の真の意味はない。逆臣を恐れて処置しなければ、きっとまた私心の謗りを招くであろう。去る健暦年中、和田左衛門尉義盛が謀叛を企てた時、『因人の平太(和田)胤長を赦されますように。』と言って、一属が参列したが赦されなかった。結局胤長を面縛されたまま彼らの目の前を渡して人に預けられたところ、後日義盛は蜂起したが、その場では決して胤長身柄を抑える事は出来なかった。私心のない事に先例はこの通り、である。」。
同月十六日条、「武田伊豆入道光蓮が先月の御決定の趣旨を、漏れ聞き特に謝罪した。「もとより異心は有りませんが、噂がありましたので、ご審議が行われたのでしょう。驚きかつ恐怖しております」。その上、子々孫々までも決して悪事を企てる事は無いと起請文を書き平左衛門尉盛綱を通して前武州(北条泰時)に献じた。(泰時は)すぐに起請文を召し置かれ、今日の評定の機会に左衛門位(清原)満定に命じて評定衆に回覧させた。起請文の内容は適当であり、人々も一様にこの事を行うよう群議が行われ、その場にいた衆を始め、一族の家督などに命じられたという。」。所領を巡る相論により、鎌倉幕府を構成する御家人間での武力衝突の発生する危険性があった。またそれを調停するために「理非」を示す裁判を行っていたが、それに不満を持った側が裁判する者自身に危害を加える可能性もあった事も窺える。 ―続く―