鎌倉散策 北条泰時伝 五十七、御成敗式目四十七条から五十一条条 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『御成敗式目』第四十七条、以不知行所領文書、寄附他人事<付、以名主職不相觸本所、寄進權門事>:不知行の所領の文書を以って、他人の寄附する事(不知行の所領の書類でもって他人に寄付する事の禁止、名主が本書に断りなく領地を寄進する事の禁止)。実効支配していない領地にもかかわらず、有力者に寄進して実効支配を行おうとしたものは追放し、受け取った者には自社の修理を命ずる。また、本所に断りなく領地を、貴族や寺社に寄進する事を禁止する。これに背いた名主は名主職を奪い、地頭の配下に置く、地頭がいないところでは本所の配下とする。※ここまでやる者が多くいたと言う事だ。新地頭の土地を、名主が勝手に他に討ってしまうなど、あくどいというか露骨で誇りがない。泰時の、為政者としての苦労がしのばれる。

第四十八条、賣買所領事:所領を売買する事(所領を売買する事の禁止)。御家人が先祖代々支配していた所領を売ることは問題がないが、将軍から、恩賞として与えられた土地を売買する事は禁止する。これを破った者は、売った者も買った物も、共に罰する。

 

(写真:ウィキペディアより引用 御成敗式目)

 第四十九条、兩方證文理非顯然時、擬遂對決事:両方(原告と被告)の証文、理非顕念の時、対決(口頭弁論)を遂げんと擬する事(双方の長所にとって判決が出る場合について)。原告・被告の提出した書類を調べて、明白に理非が判断できる時は、わざわざ双方を呼び寄せず、直に判決を申し渡す。

 第五十条、狼藉時、不知子細出向其庭輩事:狼藉の時、子細を知らずその庭に出て向かう輩の事(暴力事件の現場に行くことについて)。暴力事件が起きた時、その委細を調べに行く事は許されるが、暴力行為に加勢するために行くことは罰す。※喧嘩・口論の時、細かい事情も知らずにその現場に出向いた者の事だが、一方加勢すれば同罪である。

 第五十一条、帶問状御敎書、致狼藉事:問状の御教書(被告への尋問状)を対して狼藉を致す事(問状を以って被告人を脅かす事について)。受理された書状に基づき、被告に出される尋問状を原告が手に入れ、その幕府の威力を利用して被告を脅かすことは罪となる。今後は、不当な訴えに対しては尋問状の発行をしない。※これまで、この様に原告(訴える側)が幕府の権威を使って被告(訴えられる側)を不当に脅かすことが多かった。公正な裁判というものの実現性が、いかに困難だったかと言う事であった。

 

『御成敗式目』は、前五十一条からなる物で、この五十一という数は聖徳太子の憲法十七条の三倍ととなり太子に由来するともされている。条文においては以上であるが、「式目」の事を発議しての発起し、現在未来に渡り長く遵守されることを願い、政治の修行に私心がない事を「起請」の文面を評定衆十一人に署名させている。『吾妻鏡』貞永元年(1232)七月十日条に「正道の私心の無い事を表明するため、評定衆が連署した起請文を召された。その人々は十一人である」と記され、中原師員、三浦義村、二階堂行村、中条家長(八田知家の養子)、三善康俊、二階堂行盛、後藤基綱、三善倫重、三善康連、佐藤業時(中原仲業の猶子)、佐藤長定(藤原清長の子)、そして北条泰時・時房が連署し、作成させている。『箱の神社大系 下巻』によると為政者としてのこの世の道理を解いた者で、「親しい間柄か否かで採決するべきではなく、仲間であっても権力を恐れずに無欲であるべきこと」などの内容が記され、これに反したならば梵天帝釈、四大天王、日本全国六十四州の天地の神、とりわけ伊豆山権現・箱根権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神それらの眷属の神罰・冥罰を受けるべきであると記されている。

 

 承久の乱後、幕府に与した武士の勲功に対して褒賞として守護・地頭職、新恩地を与えた。また乱の二年後に新補率法として新たな地頭得分を官宣旨で発布した。そのため新補率法の解釈を巡り、所領を得た武士や地頭職を給わった武士と荘園領主である権門勢家の本家・領家との紛争が多発し、多くの訴訟が増加している。『式目』の制定は、武士と権門勢家の本家・領家の調停としての機能を支える法の制定を必要とした。佐藤雄基氏の『御成敗式目』では、「武士達に「言い含める」ことを命じる法の多さがこの時期の幕府法の特徴である。承久の乱後には後鳥羽院政も崩壊し、幕府の西国統治も未整備だった為、地頭・武士たち一人一人に「言い含める」事により西国の秩序回復をせざるを得なかったのだろう」と記している。守護・地頭による非法行為を挙げて禁止条項を定め、これに違反するする守護・地頭は「改易」するという罰則を加えて「存知」するように命じた。『式目』は御家人達にとって規制するとともに『式目』を順守する事で御家人を守る者であり、その概念は現行法律と同様である。

 

 『御成敗式目』を制定した後、六波羅探題の異母弟・重時に二通の書状が贈られた。この書状を「泰時消息文」と言われ「式目」の精神と目的が書かれた。「裁判が当事者の地位によって左右されるなどということが無いように、公平な裁判を行うための基準となる法で、無学の御家人等もそれを周知徹底し、法の無知によって罪に陥れられることのないようにすることが目的である」。「武家社会の道徳規範たる道理に基づいて定められたもので、公家社会の律令、格式を変更する者ではない」。また不備の補充や新事態に対応するために、折に触れて追加法が制定され、これを「式目追加」または単に追加などと称した。「泰時消息文」には「是に漏れたる事項は都度、追うて記し加えらるべきに候」として追加法の必要性を示唆している。鎌倉・室町期において必要な追加法が制定され『新編追加』を始め何本もの追加法が編纂されて現在に伝わっている。また、当時の武家や庶民は律令を知らない者が多くいたため、内容を熟知した役人が恣意的に運用している事から、漢字の読める者が少ない武家に配慮した内容で武士に分かりやすい文体で行かされたことを告げている。

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写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像 鎌倉今宮

 承久以来幕府滅亡まで百十二年間に出された法令中、現在残されているのが約八百条である。泰時が執権として在職した十八年の期間に出された法令は、式目の五十一条を含め二百四十条にあげられ、全体の三割であった。承久の乱後に幕府は、権力をえたが、権問勢家の一つとしであり、他の勢力に対し軍事勢力としては圧倒的であったが、律令体制時において他を優越する勢力ではない事を式目において見られる。国司・領家の支配に干渉できなかったこと、非御家人を編制し得なかったこと、御家人家族の支配に干渉できなかった事御家人の資料に干渉できなかった事などであった。本来の「式目」の意図が御家人統制と保護にあったとも考える。泰時は頼朝の権威による不易の法ならびに知行年規制を制定し、御家人の領主権に保護統制を加え、御家人との主従関係を強化し封建権力として幕府強化に努めた。その意志は泰時の子孫に受け継がれて行く。泰時の政治は道理に基づいたものであったため穏健であった。幕府的秩序が保ち、権問勢家である朝廷・貴族・寺社との間でも均衡のとれた時代であった。「御成敗式目」において御家人等に秩序を求め、名執権と称賛された。そこには北条泰時の執権時に争乱が無かったことで証明されている。 ―続く―

 

写真:鎌倉市大船常楽寺)