鎌倉散策 北条泰時伝 五十二、御成敗式目 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛喜の大飢饉と共に流行り病のため貴賤多数が死んでいる。そのため寛喜三年の翌年には、貞永と改元した。

 この年の貞永元年(1232)、『吾妻鏡』五月十四日条、「武州(北条泰時)が政治に専念されるあまり、御成敗式条(の制定)を計画され、このところ内々に審議が行われており、今日まさにこれを始められたという。すべて玄蕃允(げんばのじょう:太田)康連に相談されたところであり、法橋円全が執筆した。これは、関東の諸人の訴訟について以前に定められた法が少ないので、時によって判断が両様となり裁決が一致しなかった。このためその法を確定し濫(みだ)りな訴訟の原因をなくすためである。」と記されている。そしてこの年の七月十五日に、和賀江島を築き始め、平三郎左衛門尉盛綱が赴いたという。そして翌八月九日に完成し、尾藤左近入道(同然:景綱)・平三郎左衛門尉盛綱が(泰時の)御使者として巡検した。

 

 『吾妻鏡』同年八月十日条、「武州(北条泰時)が作られていた御成敗式目の編纂が終わった。五十ヶ条である。これはまさに淡海公(藤原不比等)の律令に比すべきものであろう。律令は国内の規範であり、式目は関東の大いなる宝である〔元正天皇の御代、養老二(718)年に不比等が律令を編纂されたという〕。

 同年九月一日条、「畿内近国や西国の境相論について、どちらも国衙領ならば当然国司が裁断するように。庄園については、領家が取り計らって奏上し、聖断(天皇の裁決)にまかせえるように。」と定められ、さらにこの内容を六波羅に命じられたという。

 同月十一日条、「武州(北条泰時)が五十ヶ条の式条に仮名の御書状を添えて六波羅に送り遣わされた。駿河源左衛門尉﹅﹅が使者となった。閏九月一日には、「庄園については本家・領家が処置するように定められた」。

 幕府・北条泰時は源頼朝の政治方針を継承し、それを体系化した為政者である。泰時は頼朝の先例による裁断を用いて訴訟裁定を行っていたが、唐に倣って制定された『延喜式』に代表される律令は、武士が台頭する時代には多くの事柄が適応できなくなっていた。泰時が執権就任後間もなく、律令格式に関する学問である明法道の目安を見る事を日課としており、泰時の式目編纂の企図は相当早くからあったと考えられる。承久の乱後に権力を掌握した幕府(北条泰時)は、寛喜の大飢饉の混乱が終息に入るころ、安定を図るために『御成敗式目』を制定する。法典の制定は古代以来、天皇の大権に属することであった。また本来の「式条」は、公卿法上の用語であり、目録の意味を加味した「式目」とすることで天皇の裁可も得ず、公布・施行させたのである。その内容には東国の御家人を対象とし、朝廷・貴族が対象外であり、大飢饉の混乱期において幕府が御家人の統制上必要であることから、朝廷も認めざるを得なかった。

 

 北条泰時は、式目編纂の意図を異母弟の六波羅探題になっていいた北条重時に貞永元年八月八日書状において示している。上横手雅敬氏の『北条泰時』においてまとめられていおり、「裁判の公平のためには裁判の基準となる成文法が必要であり、成文法が無ければ、裁判は編頗(へんぱ:偏って不公平な事)に流れやすい。当時においては、武家成文法は作られておらず、法と言えば律令法しかなかった。そして御家人は律令法についての知識に乏しかったが、法についての知識が無ければ、自分の権利を主張する事も出来ないし、法を犯したという罪悪の意識も生まれない。しかし律令法の知識を持たぬというのは、単に知らぬというだけの問題ではなく、律令法が現実の武士生活に適応しなくなっていたからである。それ故に頼朝以来歴代の将軍は、律令法による裁判を行わなかった。その裁判の根拠は、武士達の常識とか道徳とかであった。法の根底には常識及びその上に成立する人間の行為規範としての道徳が存在するはずであり、それが無ければ誰人も法による裁きを受けることを拒むであろう」。また、武士達の常識的な道徳として、「常識的な武士の道徳を彼は当時の流行語であった「道理」という言葉で表現した。「道理」という言葉は、慈円の「愚管抄」などにも見え、極めて仏教的・哲学的な意味に用いられている。しかし式目の「道理」は正を正とし、邪を邪とするというほどの意味であり、その正邪を判断する時の基準は「従者主に忠を致し、子親に孝あり、妻は夫に従はば、人の心の曲がれるを棄て、直しきをば賞して、自ずから土民安堵のはかりごとにてや候」という武士の実践道徳だった美である。そしてこの

『御成敗式目』制定においては、武士達の精神である土地を守るという現実的な課題もあった。より明確な「道理」に沿う「成文法」により公平な土地訴訟の裁定を目指すものであった。そこには幕府(将軍)との主従関係の根底があったからである。法制定において泰時は、六波羅探題の異母弟重時に『御成敗式目』の対象はあくまでも御家人である事を明確に伝えた。律令法を理解する公卿・貴族に関する法律でない事を「畿内近国や西国の境相論について、どちらも国衙領ならば当然国司が裁断するように。庄園については、本家・領家が処置するように定める」と。しかしこのような異なる二つの法の存在を朝廷に反感を持たれたことは言うまでもない。

 

 当初、三十五ヶ条で制定され、完全な物ではなかったが、法というものは制定することに意味があり、補いきれないものは追加法により補っていけばよいものである。したがって最終的には五十一ヶ条となった。『御成敗式目』の制定は日本の法史上において画期的な出来事であり、それまでの歴史を大きく転換させ、今日までの権威と権力の分離の始まりと考える。そして『御成敗式目』の内容の根底には、社会規範・通念、公平・平等、常識的な道徳な観点が置かれている事から江戸末期まで応用された武家の成文法であった。 ―続く―