鎌倉散策 北条泰時伝 五十一、寛喜の大飢饉 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条泰時の「御成敗式目」成立の前に、歴史的事項を少し帰りみる。寛喜の大飢饉に先立ち安貞元年(1227)に飢餓があった。飢餓は天才であるが、天災に対する政策を誤ると、それは人災となる。その対応が、『吾妻鏡』五月二日条に「造伊勢大神宮役夫米について、諸国の飢餓で困窮している民は期日内に納める事が出来ないと既に奏文した。勅答を待たれていたところ、御杣(そま:材木を取る山)の用途が欠如していると(造営)使等が愁い訴えたので、武州(北条泰時)の知行する駿河・伊豆両国の役については出挙を召すように命じられた。利分については済物(さいもつ:諸国から国家に納める貢納物)に充てるよう、今日(造営)使等に命じられたという」。この年朝廷から伊勢神宮造営のために伊勢神宮役夫米が課せられ、幕府は朝廷の命を諸国に伝えた。しかし、飢餓のために役夫米を収め難い旨を伝えたが、朝廷でも材木の費用が払えぬから何とかしてほしいとの依頼であった、泰時は執権として拒むことが出来ず、自身の分国である駿河・伊豆国の推挙米をあてた。その出挙米の利子は国衙から朝廷に納める供物を充て、百姓の煩いに配慮している。

 

 安貞元年(1227)五月に長子・時氏に次男・時頼が生まれる。しかし、六月十八日には泰時の次男・時実が家人の高橋二郎に殺害された。享年壱六歳であった。この事件の原因は不明で、他にも仲間の御家人参人が殺害されており、高橋二郎は即刻捕らえられて、その日に腰越で斬刑に処せられている。当時武士の家系で個人が罪に問われてもその罪に加担していなければ連座は免れた。高橋の家系は断絶することなく後の六波羅探題北方に付く北条重時の家臣として存続しており、北条重時は泰時の異母弟であり、泰時が最も信頼した人物であった。時実殺害には情状を酌量する事情があったとも考えられる。

寛憙元年(1229)三月二十三日、時氏の配下である三善為清(壱岐左衛門尉)が借金の返済を巡って貸主の日吉二宮社の僧侶を殺害する事件が起こった。その際に両者の従者も争いとなり、為清の従者も殺害される。日吉社の本所である延暦寺が時氏に為清の引き渡しを求めるが、六波羅探題方は日吉社に為清従者殺害の下手人の引き渡しを求め、延暦寺側僧兵と六波羅探題の武士との間で衝突する騒ぎとなった。延暦寺の天台座主であった尊性法親王は、事態の収拾に責任が持てないとして座主を辞任する。北条泰時は朝廷に事件にかかわった三善為清人同僚の壱名の配流を朝廷に申し入れようとするが、時氏はこれに激しく抵抗した。

  

 寛喜二年(1230)三月二十八日、時氏が六波羅探題在職中に病に倒れ、鎌倉へ戻る。『六波羅守護次第』では鎌倉へ下向中に宮路山(現愛知県豊川市)で発病とされる。『明月記』には著者の藤原定家が姉小路実世より三月十七日に時氏に会って二十八日に下向すると伝えられ、その記述に病に関するものは無い。『吾妻鏡』では寛喜二年年六月十八日条に「戌の刻(午後九時頃)に修理亮平朝臣(北条)時氏が死去した(年は二十八歳)。四月に京都から(鎌倉に)下向し、数か月も経たずに病気になったと。内典・外典の祈祷が行なわれ、数種類の治療を施したが、                                                                                                                 全てその効果はなかった。去る喜禄三年六月十八日にも(泰時の)次男(時実)が死去し、四ヶ年を隔てて今日またこのような事が起きた。すでに兄弟が早世され、歎き悲氏は大きくたとえようもなかった。寅の刻に大慈寺の側の山麓に葬った。祭礼については陰陽師大允(安倍)晴憲が紋性の刑部房を推挙したという」と記されている。その一月後に三浦や寿村に嫁いだ泰時の娘が子を産むがおよそ十日後に子がそして一月後に娘が亡くなり、立て続けの不幸に見舞われた。泰時もそうであるが、父義時、長子時氏、次子時実が全て六月に死去しているのも偶然であろうか。                                                                                                                                           

 

 『吾妻鏡』閏正月二十六日条に、内裏の清涼殿の東北にあたる警護の武士の詰め所の滝口に人が居ないという滝口の経験のある者の物の子孫に命じて差し遣わすように既に院宣が下されていた。                                                                           有力御家人である小山・下河辺・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野の家々の子息一人を派遣するよう命ぜられる。この文書は相模守・北条時房の連署であった。これを延暦寺と対立して朝廷の意向にも抵抗した時氏を六波羅探題からの更迭するための布石であったとする説もある。また同年二月十九日に将軍家(藤原頼経)が、北条重時が京都守護として近日上洛するため御餞別として由比ヶ浜で犬追物が行われている。そして、時氏の後任として北条重時が京に派遣された。また騒動から一年後の更迭は時氏の廃嫡を意図したものではなく、いずれ泰時の後継者として幕府での要職に就かせるという移動であったとも考えられる。

                                  

 寛喜二年(1230)六月には、美濃国、武蔵国で降雪の異変、各地で長雨と冷夏にみまわられ、寛喜の大飢饉が起こる。養和元年(1181)に西日本を襲った大飢饉以上の日本中を巻き込む物であった。「草木葉枯れ、偏(ひとえに)に冬樹の如し、穀物みな損亡」と記されるほどの状況であり、翌寛喜三年春には、わずかな備蓄米を食べつくして飢餓に陥る。春窮の状態となり各地での餓死者が続出し「天下の人種三分の一を失う」と語られた。翌年は冷夏ではなく、晩夏には飢餓も一服したとの記述もあるが、逆にこの年は酷暑に見回られて、前年の飢餓で食べつくした事による種籾不足がもたらす作付け不能となり、悪循環に至った。

 

 『百錬抄』には源平合戦(治承・寿永の乱)が重なった「養和の飢饉」以来の飢饉と記されている。『明月記』には歓喜三年九月には北陸道と四国で凶作になった事や翌七月に餓死者の死臭が定家の邸宅にまでおよんだこと、また所領のあった伊勢国の住民にも死者が多数出て収入が滞った事などが記されている。京都での儀式での供物が添えられると、空腹者がそれを奪う。また天皇行幸の際の輿を担ぐ供奉人は飢餓のため六波羅の武士が代役を命ぜられた。それらの武士は禁忌であった牛馬の肉まで食用に供された。そして特に京都、鎌倉には流民が集中し市中には餓死者が満ち溢れた。泰時の青年期に伊豆国の凶作で農民を救った事や、安定貞元年(1227)に飢餓を経験した泰時は徳政を行う。泰時の分国である伊豆。駿河で富有者に出挙米を放出させ、利子の偏財を延期させ、偏財能力の無い者には泰時自ら返済した。貞定元年十一月までには九千余国に達したという。また飢餓の酷い地域など千余町の年貢を免除し、杭瀬川の駅(大垣市)では通過する浪人たちに食料を与え、縁者を尋ねてゆく者には旅料与え、この地に留まりたい者には付近の百姓に預けた。そして泰時が従来禁止していた人身売買を期限的に認めた。民の家の食い扶持減らしであるが、民衆の中には富豪の家に仕えたり、妻子を売却・質いれすることが相次ぎ、幕府の指示に従って債務や利息を放棄する者や米などを放出した有徳人等の救済者が困窮する事態を防ぐ意図もあったと考えられる。飢餓対策として根本問題は生産量が少なかった点にあげられる。上横手雅敬氏の『北条泰時』には「全国各地に荘園が散在し、その封建的な枠に阻まれて、商品流通が思うにまかせぬことにあった。泰時の権力も、その複雑な両雄機構の内部には浸透せず、統一威的な社会政策などは行いえなかった。泰時の飢餓対策も、幕府の支配地域全体というよりは、泰時個人の支配地域に留まらざるを得なかった」としている。後の八代執権北条時宗の時代までには、荘園の生産性が鎌倉期でもっとも拡大し流通も整備されている。

 

 他に記述する事は、同年十二月、四代将軍頼経が二代将軍・源頼家の娘・竹御所と結婚している。そして、貞応元年(1232)若江島に埠頭を築かせ、日宋貿易に力を入れた。これは飢餓のための流通安定化に基づく築造であったとも考える。同年御成敗式目が制定され、この式目の制定の背景には大飢饉に伴う社会的混乱があったともいわれている。 ―続く―