鎌倉散策 北条泰時伝 五十、明恵上人「和歌集」による泰時 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条泰時と明恵上人の出会いは、承久三年(1221)の乱の戦後処理で、栂尾の高山寺に官軍が匿われているという情報により安達景盛が明恵上人を捕縛した事からこの関係は始まっている。泰時が六波羅探題北方に就き明恵上人のいる栂野を訪れた。その三年後の元仁元年(1224)に泰時の父・北条義時が卒去し泰時が京都を離れ第三代執権に就く。『明恵上人伝記』において記述されている。

 

 「次の歳義時朝臣が亡くなって、泰時が執権となり、天下の政治を一手に握った時に、最初に丹波の国で一庄園一ヵ所を栂尾に寄付されたが、上人の申されるには、「このような寺に領地でもございますと、僧侶共がどんなにでたらめな事をしても、寺領のおかげで生活も大丈夫だし、衣装も工面できると思って、仏法への志の無いならず者共が入り住んで、ますます道理にはずれてゆくようになりましょう。寺が経済的に恵まれれば、それに甘えて稚児を置いて酒を酌み交わしてお互いに楽しむとか、武器を持ってとんでもない行動に出るとか、何をするかわかりません。いかにも寺らしい山寺と思われるものが、仏の戒律に違反してあきれ果てた姿になって行くのは、寺領のおかげで経済的に豊かになる事が原因です。ただ僧侶は貧乏で他人から尊敬される事だけでやってゆけば、自然とでたらめな行為というものはありません。信じて誠実な修行をするところには、やはり末法の時代だと申しても、各方面から布施者の信仰も強く、仏の信仰も強く、仏の教えも食事も心配なく栄、戒律も守らず教法に従わない僧侶のいる寺は、単に一般の在俗の人々に僧侶を非難させるという罪を与えるだけでなく、誰からも信仰されず心服されずに、一日一日と寺も衰え荒れ果ててしまうものであります。この二つを比較すれば、人が信仰しなくなるのを恐れて、戒律に違反した行為をしなくなるのは、わずかの間でも仏智軒の生きた働きを継承するという点で優れておりましょう。また世の中には領地自田を寄付されて立派にやって行ける寺もありましょうから、そのような寺に寄付を御計画ください。ここ栂尾の寺には領地があることは、逆に仏法修行のためには宜しくあるまいと思われます。このように仏法を尊崇されることはありがたい事と感謝しておりますが、この栂尾だけは私に考えがありますので」と言って返還されたのであった。秋田城介義景はその後、出家して上人の御弟子となり、大連房覚知と言った」。

  

 秋田城介義景との記載であるが、出家し弟子になるのは父景盛の事である。これらの所領寄進に対する文書記録はないが明恵上人の『和歌集』にてこれに関する歌が認められる。

武蔵守泰時、消息を送るついでに、

「思いやる 心は常に 通う者 知らずや君が ことづてもなき (返) ひとしれず 思う心の かようこそ いふにまされる 調べなるらめ」。「私は常に上人を思慕しておりますのに、上人は一向にお手紙を下さいませぬ。せっかく京都から人が来ますので、おことづけ下さればよいのに、何のご連絡も頂けない事も、悲しくぞんじます」という意。

同人時料を奉らむと申さるるを辞退して伝、

「ちぎりあれば 生々世々(しょうじょうせせ)も むまれあはむ かみつぐように そくひにはよらじ (返) きよければ きじくはじとは おもうべし かみつぐそくひ なにいとふらむ」。

同人は泰時を意味し、時料は台所威を賄う費用 。 泰時が寺領として台所の費用を賄うべき土地として荘園を寄付したいと申し出を上人が断った歌である。「もしもご縁があれば、次の世にも、そのまた次の世にも、御一緒に生まれ合わせて、浸しく交際しましょう。何も紙と紙とを、即位、すなわちノリでつなぎ合わせるように我ら二人を寺領でつながらずともよろしい」。泰時はこれを詠んで返す。「所領等で汚されるのをおいやであると仰せられるが、上人が着じ食わじ、すなわち美服は着るまい、美食は食うまいとお考えになるのは、ごもっともでありますが、紙をつぐ程の糊、それに似た所領一ヵ所ぐらいを、それほどに毛嫌いされる事はありますまい」の意。

 

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府中・後期に幕府により編纂されたため、特に泰時の記載は、美談的な記述が多く残されている。曲筆であるとおもわれる記述も認められるが、『沙石集』にも泰時を「真の賢人である。民の嘆きを自分の嘆きとし、万人の父母のような人である」と評した。道理を愛し、訴訟裁断の際には「道理、道理と繰り返し、道理に適った話を聞けば「道理ほど面白きものなし」と言って感動して涙まで流したと伝えている。北条泰時が明恵上人に帰依した記載は見る事は出来ないが、北条泰時の墓がある鎌倉市大船の臨済宗の常楽寺には、「華厳宗」「真言律宗」において尊宗される鎌倉期作成の文殊菩薩座像が安置されている。これは明恵上人の影響ではないかと考えられる。泰時以後、武士が仏神の信仰と共に、僧侶の帰依者が増加して行く事になり、遁世僧による鎌倉新仏教が発展することになった。

 

 『吾妻鏡』には、北条泰時の僉議の中での発言の記載が少ない事に興味を持つ。敢えて、史実編纂としながら編纂者が泰時の存在を承久の乱の上洛から宇治の決戦、入京後の戦後処理に最もそこに焦点を当て、泰時の人となりを表し、名執権として形成させたのではないだろうか。泰時の執権時には、戦乱が起こっていない事が、それ等を立証させる物ではなかろうか。

北条泰時は、承久の乱後、戦後処理と訴訟裁断のため三年の間、六波羅探題北方として京で過ごした。明恵上人と出会い、そして、京の文化と律令を知る。朝廷における道理と幕府の施政に及ぶ道理が、それぞれの立場によって相違する所を知り、執権となった際に、頼朝の裁断を前例としながら武士・御家人に対する規範を制定し、訴訟に用いる法典を制定した。それが「御成敗式目」であり、室町・安土桃山期を通じても武士の基本法として適応され、追加法令を加えて発布されている。江戸期においても「武家御法度」の基本法とされ明治の近代法が制定されるまでその位置を譲ることはなかった。  ―続く―