『明恵上人伝記』の北条泰時の答弁を続けて見ると、
「このような事が二・三年の間続いたので、嘆かわしく思っていたところ、結局北条氏を滅ぼすご計画と聞き知りましたが、これという証拠もなかったので、朝廷への哀訴歎願(あいそたんがん)もいたしませんで、恐れ謹んでおりましたところが、すでに伊賀判官光季を滅ぼし、数万騎の官軍が関東さして出発と、伝え聞きましたので、父の義時は内々で私を呼んで言いますには、『どのように取り計らうべきかを、内々評議した後で、二位の尼(北条政子)の竹の御所に行って相談せよ』と申しましたので、わたくしが答えて申しますには、『平清盛が陛下をお苦しめ申し、日本中に心配迷惑をかけましたので、平家を滅ぼして、上は天子の御心痛を休め、下は万民を治めてきましたのにそれを処罰されるとは、これは朝廷の御失政ではありますまいか。しかし日本中すべて天子の御所有であり、ひとたび日本に生まれた以上は、すべて陛下のお考えにお任せ申すべきでありますから、頭を下げ両手を束ねて降参人となって歎願申すのがよろしいと存じます。その上で、それでも死刑斬罪と言う事なら、止むを得ぬ事でしょう』と申したところ、義時朝臣はしばらくの間考えていたが、『その道理はよく分かるが、それは陛下のご政治が正しく行なわれて、国家がよく収まっているときの事である。今は上下すべて不安な思いしない者はない。それに反して関東御分国としての幕府支配地だけは、多少とも朝廷のこの失政から免れて、人民は安心しておれるのである。もし日本中が君主の支配地となったなら、不幸は日本中に充ち溢れて、安心も出来ず、国民は大変歎き悲しむことであろう。だから天下万民の嘆き悲しみを代弁して、その為には自分自身の神仏の加護がなくなり命を落としても嘆くべきではない。この事、先例がないわけではない。
殷の(いん))の紂王(中央)を討った周の武王や秦を討った漢の高祖は、既にこの事を実行していたのではなかったか。彼らは自ら国王の位についたが、我々関東勢は、もし勝利を収め得ても、天子のみ位を改め申して別の方を天子のみ位におつけ申すだけであるから、皇室朝廷の守護神である天照大神や正八幡宮の神々からも何のお叱りがあろうか。君主を悪へと誤って導き申し上げてはならない。誤った道へと導き奉った側近の臣どもの悪い行為を罰するだけの事だ、早速出発せよ。またこの事を二位家(二位尼政子)にお伝えせよ』と言って座を立ったので、仕方なく父の言葉にも一つの道理がある以上、その命令に背くことが出来ないので随(したが)いました。そこで京都に入りましたが、最初に八幡大菩薩の前にある橋の所で馬から下り、頭を下げて信心こめて祈って次のように言いました。
(写真:京都高尾高山寺 明恵廟臈)
『此度の京都入りが道理に背いたものならば、この場で泰時の命を奪い取って来世をお救い下さい。もし天下のためともなって人々の心を安じ、仏神両道を興隆することが出来ますなら、私に慈しみと哀れみを授けて下さい。凡夫にはわからぬが神仏の心はきっと見てい下さるでありましょう。少しも私心は持っておりません』と。また伊豆山権現と箱根権現、及び三島明神の前でお誓い申した事も同様であります。それ以後は命を天に任せてただ運命を待ちましたが、今日まで無事に参りました。これはあるいは最初の祈願の結果でありましょうか、それだのにもし私が怠けて仏神に道を興隆せず、国家の政治を大いに補佐しなければ、その罪は私一人にかかるべきであります。そこで食事中でも、誰か訪ねてくる人があれば、食事の終了を待たず急いで訪問者に会い、頭髪を梳(くしけず)る短い時間でも、訪問者が来れば終わりまで待たせる事無く直ぐに逢うと言った工合(ぐあい)で、休んでいても寝ていても、やはり心安らかでなく、訪問者が何か心配事で訪ねて来たのを待たせているのではないかと惧(おそ)れ、さらに国民すべてを愛撫して成長させたいと計るとともに、退(しりぞ)いては必ず反省しているのでありますが、生まれつきの道理に暗いので、まだまだ不十分なところがあるでしょう。その罪は逃れる事が難しい。今、上人の慈悲ある言葉を頂戴して、感涙にむせんで涙を止める事が出来ませぬ」と言った。
(写真:ウィキペディアより引用 慈円像)
後鳥羽上皇の承久の乱を生じさせたことに対して、同時代を生きた慈円が『愚管抄』に「後鳥羽上皇は、衰えた者の復興しようとする場合に見られる道理についても、また昔から移り変わって来たこの末の世の道理を皇祖神や国家の守護神が照覧なさっていることについても、御存じなくてあさはかな御処置をとっておいでになるとお見受けするのである。」と批判を記している。
また、後の南北朝の動乱期村上源氏の血統を持ち南朝に与した北畠親房によって著作された『神皇正統記』において承久の変の功罪について記されている。
「この世の乱れについて考えてみると、まことに後の世においては迷う事もあろう。また、下克上の端緒にもなるだろう。事の起こる理由をよくわきまえておくべきであろう。源頼朝の勲功が昔から例のないほど大きなものであったとしても、ひとえに天下の実権を握ってしまった事は、天皇として心やすからずお思いになるのも当然であろう。まして、頼朝の子孫が絶え、尼となった後室の北条政子や陪審の北条義時が幕政を握る世になってしまったからには、後鳥羽上皇が彼らの地位を削って、御心のままに政治を執り行うべきである、と言う事も一応、筋が通った道理である。しかし、白川・鳥羽の御代の頃から天皇政治の古い姿は次第に衰え始め後白河院の御時になると、武力による争いが続き、奸臣のために予は乱れた。人民はまさに淦炭の苦しみに落ち込んだのである。この時、頼朝が「一臂(いっぴ:尽力)」を振るってその乱を鎮めた。皇室は古き姿に変えるまでにはならなかったが、都の戦塵は収まり、民衆の負担も軽くなった。上にも下にも安堵し、国の東からも二死からも人々は頼朝の武徳に伏したので、実朝が暗殺されたと言え、鎌倉幕府に背く者があったとは聞かない。天皇方がそれにも勝るほどの徳政を実行することなくして、どうして簡単に幕府を倒すことができるのだろうか。そして、たとえ倒すことが出来たとしても人民が安心できないようであれば、転も決してこれに同意して与する事はないだろう。
(写真:ウィキペディアより引用 北畠親房像)
次に、王者の戦とは、科(とが)ある者のみを討ち、罪の無い者を滅ぼすことはない。頼朝は高官に登り、守護の職を賜ったが、これは全て後白河法皇の直際によるものであり、頼朝の示威で盗み取ったものと決めつける事ではない。頼朝の後を後室の政子が仕切り、義時が長く権力を射握ったが、人望に背かなかったのだから、臣下として罪があったと言うべきではない。一通りの理由だけで追討の兵を挙げられたことは、君主としての過ちと申すべきであろう。謀反を起こした朝敵が利を得た場合と比べて論ずることはできない。そうであるならば、後鳥羽上皇の幕府追討は、時節に至らず、天も許さぬ事であったことは疑いない事である。しかし、臣下が武力で君主を打つなどと言う事は極めて非道な事である。いつの日か皇室の威徳に従わなければならない時が来るだろう。まず、真の徳政を行い、朝廷の徳威を立て、幕府を倒すだけの道を作り出す事であり、その先の事は、それが実現できてからの事である。それと同時に、わたくしの心を亡くして、征討の軍を動かすのか、弓を収められるか、天の命に任せ、人々の望むところに従われるべきであろう。」と記している。同時期の慈円や、南北朝期の北畠親房においても泰時を指示する様な道理を説いている。
(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽上皇像 宸翰)
『明恵上人伝記』は明恵の弟子義林房喜海が明恵上人没後に明恵上人の遺跡・功績を『明恵上人行状記』に著述した。上中下の三巻に出会ったが正治元年(1199)から建暦元年(1211)までの十年余りの中巻が欠落している。上人没後十八年後の建長二年(1250)に喜海も没するが、その遺言として仁和寺の権大僧都隆町澄(ごんだいそうずりゅうちょう)が漢文に訳したのが漢文『行状記』で欠落部分もこれにて補う事が出来る。漢文『行状記』は、上人の遺跡を知る上で貴重であり、記録としての価値は高い。しかし一般庶民においての読み物として適当では無く、『明恵上人伝記』が著作され、成立期と作者は不明である。『伝記』には、北条泰時の史的内容等を『吾妻鏡』に、説話的内容を『疎石集』等に資料を用いて記述されており、哲理協議の上に限らず、国史の大局の上から見てゆくときは、『伝記』が優越的地位を占めた。承久の乱後における後鳥羽・順徳上皇との関係、建礼門院と承久の乱に加わった官軍貴族・武士の残された妻たちの記述。北条泰時との関係、また広く世間との関係を『伝記』に残され、その後、版を重ねている。 ―続く―