鎌倉散策 北条泰時伝 四十八、明恵上人の質問 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『明敬上人伝記』において、明恵上人が承久三年の乱について北条泰時に尋ねている。

「泰時が栂尾に参り、仏法について色々と話された折りに、上人は次の様な質問を出された。「昔の賢人の言葉に、人数多い時は天の理を無視して天に勝つこともあるが、天運循環して常態に復すれば、天の正道は人の邪悪に勝つこともある。ただ武力だけで国を手に入れられても、それに伴う徳が無ければ、禍(わざわい)がくることは遠くはありますまい。聖人賢者の言葉は疑うべきではありませぬ。昔から我が国でも中国でも、権力で天下を統治した者は、長く政権の座にあった例がありませぬ。申し上げるのも尊いことながら、我が日本は神代から今生天皇まで九十代に及んでおり、代々皇位を継がれて万世一系、皇室守護の三十番神、今日末世末代ではありますが、日々に守り給うと聞いています。日本中の全ての物はことごとく国王の所有に帰す物であるから、国王がこれを取られるのであれば、何の文句もないはず、惜しむ理由は有りませぬ。たとえ生命を奪われても、この国土に生まれた者として、道義の心得ある者はどうしてこれを断ることが出来ましょう。もしこれを断るのなら、日本から離れて、中国やインドへでも行くべきであります。

 

 伯夷(はくい)・叔斉(しゅくさい)は周の国の穀物は食べまいと、首陽山に隠れて蕨(ワラビ)を採って露命を継いだのに、国王の命令に反したものが、どうして国王の領地の蕨を食べるのかと問い詰められて、なるほどその理屈はもっともであったから、蕨も射食べずに餓死しました。理屈を知り心映えのしっかりしている者は、皆このような態度をとりました。だから朝廷今までの賜りものを召し上げられ、また命を取り上げられても日本国におる以上は、惜しんだり背いたりするべきではありませぬ。それだのに勝手に武力を振りかざして官軍を滅ぼし、皇居を破却し、公卿・殿上人を放逐してある者はにわかに親類と引き離され、ある者はたちまち財物宝物を奪われて、繁華な通り路で歎き悲しんでいる妻を人づてに聞くと、ちょっと見ただけでも、その行為は道理に反しています。もし道理に違反したならば、目に見えない仏がこれを御覧になり、天のお咎めがないわけでありません。いい加減の徳では天の咎めを弁償する事はありますまい。災難を弁償しないなら、不幸がなくなり、罪を消す事は出来ません。罪を消す事が無ければ、当然たちまち地獄に入るでしょう。あなたのご様子を拝見しますと、こんな道理に違反した事をなさる人でないのに、どうした事かと、お目にかかるたびに、不思議に思い、気の毒にも思っております」。

 

 泰時は流れ落ちる涙を知らぬ顔つきで拭い、は中身を取り出して花を噛んだりして平静さを取り戻して、答え申し上げるには、

「この事についての自分の考えを、かねて委(くわ)しくお話したいと思っておりましたがこれという機会もありませんで、そのままになって今日まで参りました。頼朝将軍が平清盛入道一族を滅ぼして、天子様のご心配も国民すべての心配なくし、忠義を尽くしたので大納言で大将に任命されただけでなく、日本国の総追捕使を拝命したのであります。このような時は、その都度固く辞退されていいますには『頼朝は兵士一族の凶徒を平定して陛下の御心配を一掃し、貧しい国民をはぐくんで、天子の御裁断を乱さないようにと心がけております。これは若い時から願ってきたところでございます。それだのに今官位の最上位につき俸禄も十二分に頂くのには、自分の覚悟を乱すようなものであります』と、詳しく事情を申し上げて堅く断られたが、勅命再三にわたったので、勅命に背くわけにはゆかず、泣く泣く官位俸禄を頂戴したのであります。このため頼朝の親類・一族皆恩賞に与る中で、私の祖父時政、父の義時は特別に陛下の御恩を頂戴いたしました。これは皆、今はなき後白河法皇のお恵みの下で運が開けたことに始まります。これを思って法皇の御子孫の御歴代の天皇に対しては、ますますこの上なき忠誠を尽くし、純忠一本を努力しようと、心中に深く覚悟を決めたのであります。それだのに法王が建久三年(1192)に崩御になり、正治元年(1199)将軍頼朝が亡くなってからは、朝廷の御政治も衰え、忠節を尽くしても忠を認められず、罪もないのに処罰を受けた者は数え切れないほどであります。日本中の国々は大変な迷惑を受け、国民は大変に憂い悲しみました。これという誤りも無い者が、父祖代々相続してきた荘園を奪われ、明日に頂戴した者も夕には奪い取られ、昨日下された荘園は今日には別々の人へと改められ、一郡一庄に三人も四人も領主があって国々で合戦の絶えることが無い。各地にさまよい歩く人多く山賊や海賊に満ち溢れ、人々は安心もしておられず、旅に出る者も少ない。飢えや寒さに苦しめられるもの多く、怪しい流浪者となる者の数も分からない。このような事が二・三年続いたので嘆かわしく思っていたところ…」。

 

 鎌倉期に成立する「鎌倉仏教」は、遁世僧が民衆の救済を掲げ、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗 臨済宗、曹洞宗等が成立していく。泰時のこの時代には浄土宗が広まりつつあった。遁世僧と対比するのが天台宗、南都六宗、真言宗の国家鎮護を継承する官僧である。明恵は南都の華厳宗の中興の祖であった。本来、官僧は、民衆救済は行わず、特に女性に対し穢れを持つとしていた。明恵は、この承久の乱後において救済活動を行っている。しかし五障三従説という女性の宗教的能力が低く、また転女成仏説という修行により男性化を図ることで往生できるという概念による救済であった。そして『明恵上人伝記』における北条泰時との記載の中で、明恵の官僧として思考を伺い取ることが出来、律令的天皇感が現れている。それは後鳥羽上皇からの栂尾の地と高山寺の拝領等を受けている事にもあるだろう。官僧としての明恵の道理と、武士として執権北条泰時の道理は違い、道理とは、時代により、また属する立場により違う。『明恵上人伝記』において、明恵上人からの質問に対して北条泰時の答弁は続くが、現在の私たちに近い道理を泰時の答弁により知ることが出来る。 -続く―