鎌倉散策 鎌倉歳時記 先生との別れ | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 今年の鎌倉の夏は、私が六年前に居住してから一番暑い。と言いながら気温は最高三十三度ほどである。梅雨に入るとコロナ後感染症に伴う中止されていた様々な行事が再開されだした。しかし、この暑さでは市中に向かう事は恐怖を感じる。週に一度行きつけの飲み屋さんに伺う程度である。

 今年の七月初旬に、大阪の住居に戻ると妻から先生が二週間ほど前にコロナに罹り、今和感染症は治癒した状態だが、食欲が全く無かったという。三日前程から少しは食べるようになったという。翌日に歯科検診の後にお弁当でも持って先制の所に伺った方が良いかなと妻に伝えると、妻は、「行って上げたらすごく喜びはるわ」と言った。早速先生に電話をする。電話の先生の声は非常に力なく、私だと解るとすごく元気な声に変わった。窺うことにすごく喜んでいただき翌日昼過ぎに奈良の先生宅を訪れた。持っていった和食のお弁当を食べながら昔の事や現状の事など三時間ほど話して帰宅した

 

 先生は、私とは十六歳違う。耳鼻科医であり大阪大学を卒業後、大学の非常勤講師、耳のスペシャリストとして大手大病院の耳鼻科部長を経て開業された。私が製薬会社に入社した翌年の七月で、開業地が私の担当地区であった事から開業のお手伝いをする。それが先生との初めての出会いであった。先生の開業の目的は、自身の医療従事に伴う事はもちろんであるが、多くの人たちと接点を持ち、難聴や眩暈に苦しまれる人々に少しでも改善できるように尽力され、手術も行っておられた。冬の風邪のシーズンや春のアレルギーの季節には、一日三百人近くまで患者さんが来られ、そのために一日の閉院は午後七時のはずが、九時となる事がほとんどであった。従業員やスタッフを気遣い、仕事終了後に近隣の居酒屋やお寿司屋さんなど連れて行く。私も仕事で夜に訪問した時に御相伴に与った。先生は自宅に土日以外はほとんど自宅に帰る事無く、御相伴に与った時は先生と病院で寝た事である。そんな中、開業初年度の十月初めに初めてのリクレーションとして従業員の方と先生の患者さんの持ち物である兵庫県の丹波の別荘をお借りして栗拾いに行くことになった。先生の所に来る他の製薬会社の担当者や薬剤卸業の担当者を誘って車五台ほどだし、総勢二十人ほどで出かけた。山の中にある山荘で、バーベキューをして、花火を持ち込み楽しい一夜を過ごした。そして私は栗を拾わず、病院スタッフの妻を拾い、翌年十月に結婚した。結婚式での婦長さんのスピーチで、「彼は栗拾いに行ったけれども栗を拾わずにお嫁さんを拾われた」と話され大爆笑が起きた事が思い出される。妻は大学で耳鼻科医局の事務のバイトをしていて、先生の開業時に常勤として付いていった。

 

 結婚後、受付・会計をしていた妻が遅くなるために私が仕事を終えると迎えに行き、毎日のように先生と会うことになる。先生と話をすることは、仕事の事ではなく、ほとんど季節ごとにおこなわれる院内の行事の話であった。春には山菜取り、河でのバーベキュー。夏には海水浴。秋には登山、栗拾い、ペンション旅行。冬には、丹後半島へのカニ旅行、耐寒登山等を行う規格である。その企画実行委員が私で、先生の所に来る他の製薬会社の担当者や薬剤卸業の担当者を誘い行う。従業員やパートさんを含めると三十人人規模になり、私たちが車を出し合って遠出するのである。

やがて病院も大きくなり参加者も多くなる。お正月の三日には、その大人数が先生の住居に集まり、料理が好きな先生は食事を振る舞い一年が始まるようになった。参加は自由で、従業員にしても先生の所にお世話になる業者もそれで贔屓されることもなく。ただ人が集まり楽しく過ごすことを非常に喜ばれた。

 

 私と妻に結婚二年目に娘を授かった。先生は、妻を辞めさせる事無く受付・会計から大きくなった病院の経理と秘書のような仕事に代えて頂いた。先生も耳鼻科医会の役員、区の医師会副会長と忙しくなり、従業員も増えたので、このような仕事も必要となっていた。妻は娘が生まれ三ヶ月ほど自宅で仕事をし、その後九ヶ月まで、病院二階の経理室を設けてもらい、ベビーベットをレンタルして娘を連れて仕事を続けた。九か月が過ぎると自宅マンションのすぐ近くにある保育園に預ける事が出来て、勤務も九時から五時となった。娘の成長に伴い娘もほとんど全ての行事に参加する。小学生の間の春・夏・冬休みは妻と病院に行き、妻の横で午前中勉強をし、午後になると先生やスタッフさんと食事をして病院の子のように育った。大学に入り受付・裏方スタッフのアルバイトをさせてもらい、卒業後、妻のしていた受付・会計として就職させてもらった。

 

 先生は、植物が好きで医学生の時は山に行き高山植物を観察するクラブに入っておられた。先生も五十代に入ると、私を誘い春・秋に信州や東北の山に行くようになった。私がその為十年ほど大阪府山岳連盟の下部団体に所属し、登山技術と安全登山を学んだ。また先生は、夏休みにタイの無医村地での耳の手術をするボランティアに参加して、数回現地に行かれ、その後は、後輩の先生たちにバトンを渡された。またタイの若手医師たちの日本での留学を支援された。そして後輩三人の先生方と共に三病院の医療法人に拡大させて、また大阪の耳鼻咽喉科医会の会長・府の医師会の会長を二期務められる。この間は、さすがに院内リクレーションは少なくなったが、病院の節目の記念の年には、海外旅行を実施されスタッフ一同連れて行ってもらったりもした。

 私が定年後、妻はまだ働きたいというので、私が大阪にいたならば食事など負担になると思い、お互い好きな事をしようと結論付けた。私は、好きな歴史の勉強をするために鎌倉に居住し、その年の夏先生が鎌倉に遊びに来てくれた。しかし先生も七十六歳となり、その後、週一程度診療を続けられていたが、コロナの時代に入り、高齢の先生の感染を気遣う。そして今年の六月半ばにコロナウィルスに感染されて次第に体が弱られて行った。

 

 私が今年の七月にお会いした際に、もう診療は引退しようと思っているけど、今まで主治医として見てきた患者さんに引退を告げえて、主治医の交代をしたいと思っている事を話された。私は、それはいい事で、その為に元気をつけるために食事をとって養生してくださいと励ます。私が住居に帰り女房にそれらの話の内容を伝えて元気になるように祈った。

翌日、これまでの検査の診断結果が出て、妻から聞かされ事に愕然とした。横行結腸癌のステージ4であった。先生は春に受勲され、区の医師会が、その週の土曜日に祝賀会が催され、その祝賀会に何があっても参加したいと望まれ車いすでの出席となった。祝賀会に集まった区の先生たち、医師会スタッフや府の健康保険協会の人々から賛辞を受けられ、人と触れ合うことが大好きだった先生は、評定も良く満面の笑みを表していた。そして大腸がんの手術を受けられ、原発部は切除されたが、播種がひどく、その後に低用量の化学療法、放射線が行われるとの事であったが術後二週間ほどで先制の生涯の幕は閉じられた。

 術後、妻から様態を知らせる電話が何度もあり、少しずつではあるがよくなっているように見えたが、八月十二日の夜に妻からお亡くなりになれたとの電話が入り言葉が出なかった。一筋の涙が流れた。お盆の帰省の時期であったため、どの様にしようか迷うが、翌日に十五日が通夜、十六日葬儀が行われるという。十四・十五日は、帰省、台風接近と通過により交通が麻痺・寸断された。十六日に朝一番の新幹線で立ったままでも帰ろうと思い、鎌倉の住居をその日の五時半に出る。大船でたまたま新幹線の指定が取れた。新横浜の六時四十五分ののぞみに乗る。名古屋に到着する八時前にアナウンスが入り、三島静岡間が豪雨のため新幹線が停止したという。この運転停止が翌日まで続いた。かろうじて向かうことが出来たのは先生の思し召しのように思える。棺に眠る先生は安らかな笑顔を浮かべていた。私にとって先生をたとえると、父でもなく、兄でもなく、友人でもなく、漱石の「こころ」の先生であったと思う。私にとって最大の師であり、先生に巡り合えたことが最大の出来事で、喜びであった。棺に眠る先生に、「ありがとうございました」とひとりでに言葉が出てしまった。  ―了-