明恵上人が承久の乱で兵を匿った事を機縁として、鎌倉方の六波羅探題北方北条泰時との親交が始まっている。泰時は明恵の学徳を深く尊敬し、明恵は泰時の政治思想、特に御成敗式目の制定の基礎となる「道理」の思想携帯に大きな影響を与えた。その学徳は後鳥羽上皇・北条泰時、公卿の九条兼実・道家、西園寺公経、武士の安達景盛、婦人では平徳子(建礼門院)など多くの人々から尊崇を集めた。
『明恵上人伝記』によると、「承久三年(1221)の大乱の時に、栂尾の山中の官軍の人々が多く匿われ保護されているとの噂が耳に入ったので、秋田城介義景(父景盛と考えられている)がこの栂尾の寺領内に乱入して探し回った。乱暴の余り、明恵上人を捕縛して、先に追いやりつつ六波羅まで来たところが、ちょうど北条泰時が訴訟を聞断して座におり、北条方の軍兵が堂の上にも下にも満ちていた。泰時は昨年六波羅に居た時に、この明恵上人の徳の高い事を聞き知っていたのでまず何はさておきびっくり仰天、恐れ入って自席を去り、上人に上座にお座りいただいた。この様子を見て秋田城介は大変な失策をしでかしたと気づいて、気が抜けた様子であった。そこで上人が申されたのは、「高山寺に逃げ込んだ人々を多数隠し置いたという報告があったと言われるが、それはさぞかし左様でありましょう。何故かといえば、高辨(私)の様子を時々は聞き知る人もありましょう、若い時代から本寺を出てあちらこちらと修行して回ってから後は、平常習い置いた仏法を説いた文章にさえ拘泥(こうでい:こだわること)していませぬ。ましてや一般社会の事柄については、一度も考えた事もなく長い年月を経て参りました。それゆえに身分を問わず、ある特定の人の味方をしようという心が生じても、これは僧侶としての規律からは有ってはならぬ事ですし、その上、この様な心がふと浮かんでも、二度と思い続ける事は有りません。また人が縁故を頼って自分のために祈祷してほしいと依頼を受けることが多くありましたが、生きとし生けるものが三途で苦しみ悶えているのを、何はともあれ最初に祈祷して助けられるなら祈り申しましょう。これら三途の苦しみに悶える者をすくってから後にこそ、現世の夢のような願い事を祈禱しても差し上げましょう。大事を成すときは小事は無視してもやむを得ませぬと返事して、少しも取り上げないままに何年も経過してきました。それ故に高辨に依頼して祈ってもらったという人は、この世にはいないと思っております。
さてこの栂尾の山は御仏に差し上げた寺領であるから、仏教の慈悲の精神から一切の鳥獣などの狩猟を禁ぜられた土地であります。それ故、鷹に追いかけられる鳥、猟師の手を逃れる獣、皆この地に隠れて余命を保つのであります。敵の手を逃れる兵士が、やっとの思いで命ばかり助かって、木の根本や岩と岩の間に隠れているのを、私が咎めを受けるからというのでは、無情にも追い出して、その為に敵の手に捕らえられる生命も奪われることを、無視できましょうか。私の根本の師匠釈迦如来は、前世では鳩の代わりに鷹の餌になられ、また飢えた虎のために我が身を給わったのである。それほどまでの大慈悲には遠く及ばぬながらも、これくらいの落人を見逃す慈悲が無くてすみましょうか。隠すなら袖の中にも、袈裟の下にも隠してやりたいと思った事でした。この後も援助いたしましょう。この私の行為が幕府の施政の方針に不都合でしたならば、直ちに私の首を斬られるがよい」と言われた。泰時、この御言葉を聞かれて、しきりに深く感じて涙を流して申されるに、「詳しい事情も知らない田舎侍どもが命令も無く入り込んで、乱暴を致しましたのは、南都も申し訳の無い事でございます。その上、承認をここまで引き立て申した事、教師櫛国でございます。今度もし無事に上京いたしました折には、最初に栂尾に参上いたしまして、生死の一大事についてご指導を賜りたく嘆願申し上げましょうと以前から期待しておりながら、ただ今の大事変に邪魔されて、今日までそのご縁の無かったところに、思われます。それでお尋ね申しますが、どの様にして生死の迷いから離脱できましょう。またこのような裁判に少しの私曲も無く道理のままに裁くのであれば罪にはならないかと思いますが、どうでありましょうか」と。上人の御答えは「少しでも道理から外れて行動する人は、来世の事は言うまでもなく、現世で間もなく滅亡する者であります。そのことは申すまでもないが、たとい正しい道理に随(したが)ってなされても、それぞれの分にも応じての罪は逃れられぬこともありましょう、生死の助けとなるなどとは、とんでもない事であります。
山中の僧侶でも、やはり仏の教えの奥深い道理に合わないなら、三界六道に迷いの生死を続けるという苦しみから逃れるわけにはゆきませぬ。まして俗界の欲心から出発して、種々の雑念に縛りをつけられて、仏の教えという事すらも知らないで毎日を送っている人々は、なおの事であります。世間に大地獄というものが現われるのは、以上のような人が落ちて煮られるために外なりませぬ。いつ来るか予測も出来ぬ死という恐ろしい鬼は、弓矢や刀剣や杖では防ぎようもなく、ただいまでもあなたを死の世界に引きずり込むのであろう時にはどのようになされますか。本当に生死の苦しみから遁(のが)れたいと思われるなら、しばらくの間はどんなことでも投げ捨てて、真っ先に仏のみ教えを信じ、その仏法の心理を十分に理解して政治を執り行われるなら、自然と宣い事もございましょう」と言われた。泰時は上人のお話を聞いて大変信仰の様子で、心に深く止められたらしかったが、やがて神輿の用意をして上人をお乗せし、門の近くまで泰時自身でお送り申し上げた。その後、世の中が少し平和になってからは、いつも栂尾に参詣して上人と仏法について話された。」。
寛喜二年(1230)正月二十九日、明恵は栂尾の高山寺の地を聖域として朝廷に認めさせるため、解状を奉った。「当寺は弘法大師の聖跡である神護寺の別院であって、昔より戒律を守り仏法を伝えてきた霊地である。然るに事理に暗く欲心をほしいままにする者ども、勝手に乱入して狩猟する風があったので、先には文覚上人が厳しくこれを禁じてきたが、この頃、製法を無視し、刀を振って刹生をする者が出てきた。何とぞ朝廷において、これらの狼藉を停止し、仏法を興隆して、聖朝の万歳を祈らせていただきた」と願い出た。
同年閏正月十日、太政官から僧綱・寺社などの直接管理課に無い組織に対して送付する公文書『太政官牒』(命令色の薄い公文書)が出される。「正三位権中納言藤原朝臣頼資、勅命を奉じて願いの趣、聞き届ける。境内四至の間、一切殺生を禁断すべし」と、その境内の中に特に別院善妙寺も含められた。泰時との対面により高山寺の聖域を主張した明恵は、公的にそれを認めさせたが、明恵も歳を取り、自身が生存しない高山寺で殺生が再び行われることを危惧し、朝廷へ解文したのである。明恵はその二年後に入滅している。また善妙寺は、承久の乱で官軍に着いた将士の遺族、夫人や母親が頼るところなく栂尾に逃れた寺であった。高山寺は女人禁制のため麓の善妙寺に収容されている。
善妙寺は、西園寺公経の所有する古堂であったが、中納言藤原宗之の夫人がもらい受けて、明恵上人に請うて高山寺の別院にしたとされる。しかし、承久の乱の首謀者の一人であった藤原宗行が関東への護送の途中、遠見の菊川宿にて斬死された。辞世の詩として「昔南陽県の菊水は、下流を汲んで齢(よはひ)を延べ、今東海道の菊河は、西岸に宿りて命を失う」と宿舎の柱に書き付けた四日後に斬られている。夫人は権中納言日野兼光の娘であったが、明恵上人を頼って尼となり、名を戒光と改めた。按察使藤原光親の夫人・従三位経子も善妙寺に入り名を禅恵と改め、検非違使左衛門尉後藤基清の妻も出家し性明と名を改め善妙寺に住むことを許された。官軍の大将の山城守佐々木広綱の子・勢多伽丸は、出家して仁和寺に住み、道助入道親王に育てられていた。勢多伽丸は父広綱の謀反の連座としてとらえられ、仁和寺より六波羅に召し出される。道助は、芝築地(しばついじ)上座真昭に付き添わせ「広綱の重罪については何も言う事は出来ないが、この童は門弟として久しく親しんでいたので特に哀れである。十余歳の孤児で頼りも無いので、どのような悪行が出来ようか。身柄を預け置かれたい」と道助と勢多伽丸の母は助命・嘆願する。泰時は御使者の真昭に会って「厳命を重んじて、暫く猶予します」と、また「容貌の華麗な様子は、母の愁いと共に憐れみに堪えない。」と言った。芝築地(上座真昭)と勢多伽丸らは、仁和寺に帰る事を許される。しかし、宇治の合戦で特に武功を挙げた伯父で広綱の弟の佐々木信綱が、自分の武功を取り消しにしても勢多伽丸の処刑を強く主張した。信綱は泰時の妹婿であり、幕府においても枢要な人物であり、また先日の宇治川の戦いにおける勲功のため断腸の思いで、あらためて勢多伽丸を呼び返し身柄を信綱に与えた。『吾妻鏡』ではその後、梟首されたと記されている。『承久記』には享年十四歳と記されている。勢多伽丸の母は、悲しみの末に桂川に投身したが死にきれず、栂尾の明恵上人の下で尼僧となり、夫と子の菩提を弔った。高山寺の聖域に別院の善妙寺が含まれたことは、善妙寺に出家し移り住んだ慟哭の中に身を置く女性たちに庇護を与え、また後に哀れな女性を救う場所となった。 ―続くー