鎌倉散策 北条泰時伝 四十五、明恵上人の功績 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 孤児となった明恵は、養和元年(1181)の八月に京都高尾山の神護寺に居る伯父・上覚に師事のため高尾に登ったとされる。『行状』によると華厳五教章、俱舎頌を精読した。仁和寺で真言密教を実尊や興然に学び、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅、聖詮に悉曇字記(梵字)を尊印に、文治四年(1188)に十六歳で出家し、南都の東大寺で具足会を受けて法諱を成弁、後に高弁に改名している。禅を栄西に学び将来を嘱望された。藤田経世著『日本文化史三鎌倉時代』『明恵上人樹上坐禅僧像」には二十歳前後で明恵は入門書の類を数多く筆写したという。このように明恵は高名な僧達から広く仏法を学ぶことが出来た。しかし、建久四年(11932)二十一歳の時に東大寺尊勝院(華厳宗の学問所)への出仕および国家的法会の公請け負う(くしょう:要請)を拒む。あまりにも世俗化した日常に嫌気がさした明恵は、建久四年、二十三歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、三年にわたり白上山で修行を重ねている(松尾剛次著『鎌倉新仏教の誕生』)。白上山の修行地を下ると「施無畏寺(せむいじ)」があり、湯浅家らの寄進により建立され寛喜三年(1231)開山された。この遁世の時期に詠んだ和歌が、「山寺は法師くさくてゐたからず心清くばくそふく(便所の事)にても」がある。この頃、母御前と仰ぐ仏眼仏母尊像の前で少しでも如来の遺跡を踏まんとし仏道に純粋に打ち込む志を確かめる形で右耳をそり落としたのもこの時期だった。

 建久九年(1198)二十六歳の時に文覚から栂尾に住して華厳の興隆を託される。その後、高尾と白上を行き来している。そしてその後、十年近くインドへの憧憬を持ち渡航計画を二度行った。しかし一度目は春日大明神に託宣してインドに渡る事を留め、二度目は病気により留めたとされる。

  

 明恵と後鳥羽上皇の関係は三度の院宣を賜わり、関係は深く特別な庇護があった。一度目の院宣は、槇尾山西明寺に移った翌建永元年(1206)十一月明恵は後鳥羽上皇から院宣により栂尾高山寺の地を給わっている。これ以降、上皇の意向に従い功山寺にて華厳宗の腹腔に注力した。高山寺は古くは「神護寺別院」「神護寺十无盡院(じゅうむじんいん)」等と呼ばれ空海ゆかりの神護寺の別院であり、華厳教興隆の勝地として、明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起こりとされる。この院宣の際に下賜された後鳥羽院宸翰(しんかん:直筆)の勅額「日出先照高山之寺」(日が出ると、まず高山の寺を照らす)が、今も国宝石水院南面長押の上にかけられ、この勅額から高山寺と名付けられたとされる。第二の院宣は翌承元元年(1207)に華厳宗の研究機関である東大寺尊勝院の学頭に任ぜられた。三度目は健保四年(1216)に乗降の本別院であった石水院を下要され二年後の建保六年(1218)八月に世俗的になった感のある栂尾を離れて鴨の地に移り住んだ。加茂は上鴨神社と下賀茂神社を称する加茂大社の地で皇室との関係も深く、栂尾の地よりも圧倒的に加茂の地は京に近く世俗化されていたと思われる。

 

 当時の加茂大社の神主は加茂能久であった。能久の妹二人は上皇に仕え、承久の乱では武装して官軍に加わるが敗戦後六波羅により解官させられ、鎮西の筑紫に配流されて翌年同地にて没している。この加茂氏は加茂重長の時に源為朝の息女を娶り、生れた女子・辻殿は源頼家の妻室となり実朝を暗殺する公暁を産んだ。本来源家に近い勢力であったが、北条氏による頼家殺害と公卿に関して北条氏との確執があった事が推測される。乱の敗戦後、能久の二人の妹は共に尼となり、明恵に帰依している。『栂尾明恵上人伝記』には、「後鳥羽院、上人の徳を貴(とおと)み給いて、常に御請在之、後受戒幷法文なんと聞食けり…」と明記され、上皇は明恵の徳を尊敬されて、いつも思い召しになり、仏門に入るため戒律もお受けになったと記されている。また仏法においての説教もしばしばお聞きになられた。その頃の公卿殿上人はほとんどみな、「それぞれの縁故によって明恵上人におすがりし、尊敬もうしあげげた」とある。

 

 明恵は今も残る京都の宇治茶の茶祖である。建仁寺の長老であり、『喫茶養生記』を著した栄西に宋から持ち帰った茶の種をもらい栂尾で茶の栽培を行った。栂尾のお茶は朝廷に模献上され、「本茶」と称され、栂尾産以外の茶は「非茶(本来の茶に非ず)」として扱われている。それ以前の茶は「山茶」と言われた。そして茶の薬としての効用を知り多くの僧侶に茶を飲む事を薦めている。「宇治茶」は栂尾の茶を移植したものあり、高山寺境内は今も茶園が残され宇治の業者により管理され、毎年十一月八日には高山寺開山堂で京都の茶業組合も参加し、新茶の献上式が行われている。周山海道を下った清滝川にかかる白雲橋のたもとに「茶山栂尾」の石碑があり、「宇治茶發祥地」と刻まれている。

 

 仏教における学問研究と実践修行の統一を図った明恵の功績の一つとして挙げられるのが真言宗において最も唱えられている仏の真実の言葉、真言の一つである「光明真言」の理論体系を行った事である。鎌倉期に入ると法然の浄土宗は、無学な庶民や悪党にも「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事で阿弥陀仏による救済と極楽浄土へ導かれると説いた。これに対し明恵は、それは間違いであり、『観無量寿経』説く戒律に伴う上品上生によって極楽往生できるとし、仏陀の本来の教えに基づく、すべての災難を取り除く二十三文字の真言を世間に浸透させることに尽力した。そして『四座講式』四部構成の声楽。謡曲・浄瑠璃・長唄の下)を作り庶民にも理解し易いように努めた。真言宗では今も講じられている。これらの明恵の功績を実践面で大きく広めたのが真言律宗の祖・明恵とその弟子・忍性であった。後に鎌倉幕府にも貢献するが、特に忍性の鎌倉の極楽寺開山は、人々への救済と福祉を実践する大伽藍を形成するほどに至った。

 承久の乱後、北条泰時は明恵上人と対面することにより尊敬の念を持ち、泰時の政治施策に多大な影響を与える事になる。 ―続く―