御成敗式目について述べる前に、北条泰時と明恵上人について語ってみたい。承久の乱で明恵が京都栂尾の高山寺に敗れた官軍の兵を匿った事を機縁として、鎌倉方の六波羅探題北方・北条泰時との親交が始まっている。明恵の名はすでに高名を成し、泰時は明恵の学徳を深く尊敬した。明恵は泰時の政治思想、特に「御成敗式目」の制定の基礎となる「道理」の思想携帯に大きな影響を与えている。明恵上人との出会いがあった事が武士の法典「御成敗式目」が江戸期まで続く要因であった。その明恵上人について記す。
『明恵上人伝記』によると、明恵上人は高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重の四女の子として生まれた。明恵には姉妹があり、父の重国は京都嵐山の虚空蔵菩薩を本尊とする法輪寺に詣で、子供が欲しいと願う。現在も法輪寺は七五三参りで有名で、参った子供が嵐山の渡月橋を渡るまで、無言で振り返ってはならないとしている。それを破ると虚空蔵菩薩に授かった知恵を失い再び法輪寺に戻り参らなければならないという。子供に対して健康に過ごして来た事の感謝と、今後も健康であるように。そして子供に知恵を授けさす京都人の親の風習である。
また明恵の母は、頂法寺の六角堂に万度渡をして、一万巻の観音経を読み我が後生を助け、仏弟子として尊からん子を賜りたいと願った。そして京都の四条坊門高倉の宿所において承安二年四月の頃、妹の崎山の女房(崎山良貞の妻)と一緒に寝ていた。母は甘子を得た夢を見、妹は大甘子ふたつをもらい、途中で奪われた夢を見た。それから懐妊したという。承安三年(1173)正月八日の辰の刻、紀伊有田軍石垣将吉原村(現:和歌山市有田川町歓喜寺中越)で生まれた。母は解任の頃からもし男子が売られたならば、高尾の薬師物に参らせて、仏弟子にしたいと考えていた事から幼名を薬師丸とした。後に「一郎」と改めている(『行状』)。
禅浄房の記『上人之事』によると、明恵は京都の四条坊門高倉の宿所で成長し、また紀州に下った。二歳の時、乳母に連れられ清水寺に参詣し、群集した人々が読経し礼拝しているのを見て喜微、地主の社の前で延年舞が行われる方に乳母が連れて行ったので、前の方に行きたいと泣き叫んだのが、仏法を尊く覚えた最初であると後に明恵は語ったという。『行状』には、四歳の時、父が烏帽子を着せ、形が美しいから男にして大臣殿(小松内府平繁盛)の下に参らせようと言ったので法師になれないならば縁から落ちたり、火箸を焼いて面を焼こうと思い、左の臂の下二寸の所に充てたが、その暑さに泣きだしたという。『上人之事』では、五・六歳の頃、走路が並んで座り食事をしている様子を見て親交の思いが深く起こった事があり、その時の座敷のありさまは、障子の破れた所まで、後になっても忘れないと語ったという。幼少の頃から仏法を尊く思うようになっていたことが窺える。
治承四年(1180)正月に母が亡くなり、九月に父を失い八歳で孤児となった。重国の戦死の詳細は不明だが、
治承四年(1180)八月二十九日に頼朝が挙兵して石橋山で敗れた後、東伊豆の真鶴から海路で房総の安房に渡り千葉介常胤を招き再起を計った。『行状記』によると父・重国は、その年、九月に「源平の乱のはじめ上総の国にして、源氏のため誅せられ」たとある。頼朝に従う千葉常胤の子息の胤頼と甥の成胤が同年九月十三日に平家に属していた下総国の目代・平忠清を討ち、頼朝が房総を制圧したのが九月二十日ごろであった。おそらく治承三年十一月に平の忠清が上総介として下向した際に重国も従ったと考えられ、重国はこの戦により平家方として討たれたと考えられる。
母方の祖父・湯浅宗重は、有田郡湯浅町を中心とした紀伊国の豪族で、平治元年の暮れ平に清盛が熊野参詣に出た留守を狙い藤原信頼・源義朝等が京を制圧した。清盛は有田で状況を知り、進退を窮した際に宗重は兵三十七騎を率い加担し、京に戻った事が『愚管抄』『平治物語』にある。『愚管抄』巻五には「宗重の十三歳になる息子が紫色の革で脅した小服巻を持っていたのを宗盛に着せた。その息子は後に文覚の付き従った上覚という聖になったという」と、後の明恵の師となる伯父の名までも記されている。
『崎山文書』、『高野山文書』の阿弖川暲関係文書等により、湯浅宗茂は多くの子女があり、婚姻関係により湯浅党として有田郡一帯のしだいに勢力を固めていったことが知りえる平治の乱により平清盛との関係で平家の家人として更に勢力を強めた。
『平家物語』巻十において、平維盛が出家して熊野参詣に向かう中、狩装束の七・八騎の者と出会い、危害を加える様子も無く、急ぎ馬より下りて丁寧に礼をした。維盛は「見知らぬものだが、誰だろう」と怪しく進んで目的地に向かったところ彼らは当国の住人、湯浅権守宗重が子に、湯浅七郎兵衛宗光という者也。郎党共「是はいかなる人にあらせますか」と申しければ、七郎兵衛は涙をはらはらと流し、「口に出してもいうのが畏れ多い、あれこそ小松大臣殿の御嫡男三位中将殿よ。屋島よりこれまでは、どの様に逃れたのだろう。与三兵衛・石童丸も同じく出家してお供をしている。近くに参ってお目にかかりたかったがお気遣いなさるといけないと思いそのまま過ごした。本当に哀れな御ありさまである」と、袖を顔に押し当ててさめざめと泣くと郎党どもも皆涙を流した」。また『平家物語』「六代燈斬」には、平重盛の末子忠房が、平家が八島で敗れた後に、密かに陣を抜け、湯浅宗茂の庇護を受け紀伊国に潜伏した。壇ノ浦の戦いで平家一門が滅亡した後源頼朝の追討を受けるが宗重。藤原景清ら平家の残党が忠房の下に集い、三ヶ月の間徹底抗戦をする。頼朝は「重盛に旧恩があり、その息氏は助命する」と忠房は降人として鎌倉に向かい、頼朝と面会後、帰京の際、近江勢田で誅殺された。湯浅宗重は文治二年(1186)に降伏し、『崎山文書』、によると翌二年五月には本領が安堵されている。
この様に湯浅宗茂が、治承寿永の乱により敵対勢力でありながら、源頼朝による所領安堵が成された。その由縁として頼朝が伊豆配流中に神護寺再興を後白河上皇に強訴したため同じ伊豆に配流された文覚は、「文覚の弟子である上覚・千覚も同様に伊豆に配流されて四年の間おなじ伊豆国で朝夕頼朝となれ親しんでいた」と『愚管抄』巻五に記されている。『崎山文書』の元禄元年に頼朝が上京する中の義経へあてた手紙には「湯浅入道について他人が何と言おうと、文覚との関係があるから、所領安堵してやり召し使うようにすべきである」と勧める記載が残されている。宗重は、政局の動向に関した才があったと言えるが、頼朝と文覚、そして上覚に起因する物が大きい。
明恵が晩年に講義をした際に、この宗重の言葉を引用したものが『光明真言句義釈聴集記』にある。「法師には親近なせそ、ただのきてあつかひてあれ、心にたがへば天狗になるが、むざう(無慙)なる」。僧侶に対しては距離を以って大した方がいい、あまり大切にしすぎ、こちらの心に会わぬようになる狗になるのが哀れである、という意味であろう。田中久夫氏の『明恵』には、一人の僧にひたすら帰依すると言うのとは、全く逆で僧侶に対してこういう態度を取れるのは物事を冷静に考え最も有利に処置していける幻術主義的な性格の人だと言えるであろう。そういう人であってこそ、動乱を過ぎ一族の発展を期待し得たのであろうと記されている。
孤児になった明恵は母の妹の夫崎山良貞に養われ、後に師匠文覚、伯父の上覚を通じ仏門に入る。有田川流域に勢力を持つ母方の祖父・湯浅宗重及び湯浅党に生涯を通じ深い関係を持つことになるが、それは源氏、そして北条泰時に関係を持つ事であった。しかし、明恵は祖父・宗重の言葉通り武士との過剰な接近を拒み、仏道に励み華厳宗の中興の祖と称された僧でもあった。 ―続く―