北条泰時は貞応三年(1224)に執権就任後、幕府内での混乱を治める形で連署を置き合議制を表明した。十三人の評定衆である。嘉禄元年(1225)の夏に大江広元、北条政子が亡くなり、この流れを打ち切り、泰時の幕政を新たに計るために大蔵から宇都宮辻子への幕府成長の移転が考えられた。移転の是非を決める際に「基の大倉御所の地は頼朝墓所の下にあり縁起が悪い」という意見が出される。また、尼将軍が亡くなり将軍不在の中、三寅の元服により朝廷からの将軍宣下を受ける事がこの時点の主要課題に置かれた。
『吾妻鏡』嘉禄元年(1225)十月三日条、「雨が降った。相州(北条時房)・武州(北条泰時)が御所(北条義時邸仮御所)に参られた。現在の御所を宇都宮辻子に遷されるとの審議があった。または若宮大路の東側に新御所を建てられるべきか、同じく群議に及んだという」。
翌四日条、相州(北条時房)・武州(北条泰時)が人々を引き連れて宇都宮辻子と若宮大路などを巡検し、初めて測量をされた。隠岐入道行西(二階堂行村)が奉行して事始め以下の日時について(安倍)国道朝臣に尋ねられた。
「今月十三日から十二月五日の綾日の間でお決めください。」と(国道が)申した。しかし来る二十二日には故二品(政子)の百ヵ日である。その御仏事以降に始められるのが良いので十二月五日とすると決定した。救護所は取り壊されるという。今日は天火日(天に火気がはなはだしく家作工事や種まきなどに悪い日)という」。
同月十三日には御所造営の勘文が召され、木造始め(こづくりはじめ:木材を用いる工事を始める際の建築儀礼)が今月二十三日と十一月七日。居礎(建築の歳の礎石を置く事)十一月微十三日。立柱・上棟が同年十二月五日とされた。
同月十九日には泰時の邸宅で時房以下が御所の場所、宇都宮辻子の東西どちらを用いるか審議が行われたが、人々の意見はさまざまであったため地相人(地相人:土地の吉凶を占う者)の金浄法師が、「右大将家(源頼朝)の法華堂の下の御所の地は四神相応(四神相応)の最上の血です。どうして他書に引き移られるべきでしょうか。そこでその御所の西方の地を広げられ、工事されるのがよいでしょう」。と述べたため、時房・泰時両国司は金浄法師と直接問答し一層不審が出たため占いが行われる。二十日に時房・泰時等が集まり御所の場所について再び審議が行われ占いで決定するという。安倍国道以下七名の陰陽師を招き法華堂の下の地を第一とし、若宮大路を第二として占う事を命じられたが、国道が、「御所を他の場所に移されることは、当道(陰陽師)が申し上げ、第一とする売らない分があったならば申し状が二通りあったことになり第一・第二の占いを行うことが出来ない」と拒否した。
珍誉法眼は、「法華堂の前の御地は、ふさわしくない場所です。西の方角に岡がり、その上に右幕下(源頼朝)の御廟を安置しています。親の墓を高くしてその下に居を構えると子孫は絶えてしまうと典拠となる文章を見えており、幕下の御子孫はおられず、まさに符号します。若宮大路は四神相応の最も優れた土地です。にしには大道が南行し、東には川があり、木谷は鶴岡(八幡宮)があり、南には海水が湛池沼に准ずべきものです」。とこれにより、この場所(若宮大路)が決定した。東西については占われ西の方が最も基地であると面々が申したが信賢一人がこれに賛同せず東西共に不吉であると申したという。二十二日には二位家(政子)の百ヵ日の仏事が行われ泰時の沙汰で導師が信濃僧都道禅で、請僧は二十人であった。二十七日には、陰陽師国道朝臣が泰時邸を訪れ「今朝、太白星が弖に入りました。御所の工事を延期されるのがよいでしょう」。と進言し、どの都市に造営の沙汰が行われるのが良いか占われた。安倍晴賢が、「造内裏以下の工事では、天変を差し障りとはしないうえに、明年は若君(三寅、後の頼経)の御年九歳にて御造営を行ってはならない御年です。早々に今年工事を始められるべきでしょう」。このために翌二十八日に新御所の工事は今年中に行われると決定した。早急に工事が始まり、御所造営の勘文が召された通りの日程で取り計らわれる。
(写真:ウィキペディアより引用 宇都宮辻子幕府跡)
嘉禄元年十二月五日、上棟の儀式が行われ、八日に三寅の御元服の日時の勘文が、京都から鎌倉に今朝到着した。同月二十日に移転が成され、同月二十九日に宇都宮辻子幕府で三寅羽元服を行い九条頼経として四代将軍に就任する。
『吾妻鏡』喜禄元年(1225)十二月二十九日条、「若君(三寅、後頼経)の御方(御年八歳)の御元服が行われた。申の刻に二棟御所の南面でその儀式があった。後藤左衛門尉基綱が京の奉行であった。(若君は)時刻にお出ましになり、二条侍従(飛鳥井)教定が介助した。武州(北条泰時)陸奥守(足利)義氏以下が侍の座に着き、次に元服の所々の道具が置かれた。駿河守(北条重時)が陪膳に祇候し、周防前司(藤原)親実・右馬助(藤原)仲能等が役送を務めた。理髪・加冠は泰時で、御名字〔頼経〕を前春宮権大進俊道朝臣が選び申した。相州(北条時房)は去る二十三日以後ずっと病気であり、今日は出仕されなかったという」。二十日の御所に移る御移徒の儀に時房の名は記載されていない。
(写真:ウィキペディアより引用 藤原頼経)
喜禄元年七月に政子の死去により将軍不在となる中、急遽、三寅の元服が行われ頼経と名乗る。『明月記』嘉禄元年十一月十九日条によると、京では父・道家の威光を受けた菅原為長によって師嗣・道義・道嗣の名が考えられていた。しかし頼経に決まったのは「頼朝」の後継者としての正統性・連続性を意識した執権北条泰時の意向であったと考えられる。九嘉禄二年(1226)、将軍宣下が二より鎌倉幕府四代将軍となり、同年将軍宣下の要請のため京に使者として派遣された佐々木信綱が、頼綱の源氏への改姓を求めた。藤原氏の氏寺「春日大社」へ赴き、関白近衛家座音に伝えるが、春日大明神は改姓を許さず、頼経の源氏改姓は実現しなかった。本来、源氏姓は新皇が臣籍降下により賜わった姓であり、公卿の藤原氏に対し相応する事では無いが、養子縁組の場合は可能である。しかし、摂関家親王として下向した頼経に対しては適応し辛い。また藤原氏の九条家にとっては名を残すことにより朝廷での九条家の権勢が保たれるため認める事は出来ないのであった。
宇都宮辻子幕府は十一年か続き、嘉禎二年(1236)に宇都宮辻子幕府は同じ泰時の手により若宮大路幕府へと引き継がれる。若宮大路幕府は宇都宮北側に移転したとされるが宇都宮辻子幕府と所在地は変わらず建て替えられたとする説も有力視されている。そしてこの間に御成敗式目の制定し、鎌倉の都市整備を行った。 ―続く―