鎌倉散策 北条泰時伝 四十二、二位尼政子の死 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』嘉禄元年(1225)五月二十九日条、「二位家政子が御病気という」。

同年六月二日条、「二位家(政子)の御病気のため、武州(北条泰時)の御沙汰で今日、御祈祷などが始められた。天地災変祭・呪詛祭などを(安倍)国道朝臣、属星祭・鬼気祭を(安倍)親職、三万六神祭・螢惑祭・大土公祭を(安倍)泰貞、太白星祭を重宗、泰山府君祭を宣賢、天曹地府祭を重宗らが奉仕した」。

 同月三日条、「「政子の御病気が少し良くなられたという」。五日には御祈祷などが重ねて行われた」。

 同月八日条、「二位家政子の御病気により、今日の子の刻(午前零時頃)に御逆修が始められた。導師は信濃僧都道禅という」。御逆修とは、生前に予め自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることであり、相当様態が悪くなったことを示している。

 

 六月十日条、「晴れ。前陸奥守正四位下大江朝臣広元法師が死去した、享年七十八歳。このところ痢秒(りびょう:激しい腹痛を伴う下痢をする病気)を煩っていたという」。

 二位尼の病状が悪化する中、大江広元の死が突然記される。幕府創設者の源頼朝、三代将軍実朝が正二位であった。大江広元は早くから従五位を許され、幕府の最高権力者であった執権北条義時の従五位以下を上回る正四位以下まで昇り、幕府の政策決定に従事し、階位では将軍に次ぐ存在として位置付けられる。『尊卑分脈』では嘉禄元年に八十三歳で死去され、墓所は北条義時法華堂跡上部の山腹に左右に先祖を継承する島津忠久、毛利季光に挟まれ、やぐらに五輪塔が置かれている。

同月十二日条、「二位家(政子)の御病気は去る七日から重くなられた。御祈祷として、武州(北条泰時)の御沙汰で三万六千神祭が行われた。御使者は藤勾当(藤原)頼隆であった」。

 同月十三日条、「今日は故右京兆(北条義時)の一周忌にあたり武州(北条泰時)が新たに造営した釈迦堂の供養が行われた。導師は弁僧正定豪で、請僧は二十人。相州(北条時房)以下の人々が群集した」。

同月十六日条、「曇り。辰の刻((午前八時頃)に二品(政子)が気を失われた。諸人が群集したがすぐに回復された。日を追って(病が)重くなってきたので、昨日(十五日)に新御所に移られると仰っていたところ「甲辰(きのえたつ)の日は支障があり、来る二十一日がよいでしょう。」と陰陽師が申した。そこで延期された」。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子、大江広元像)

 同月二十一日条、「二品(政子)が新御所に移られることについては、あらかじめ今日と定められていた。安倍国道朝臣以下の陰陽師六人を呼んで尋ねられたところ、

「井の日に支障があると言う事は、典拠(根拠)となる説がありません。」と申したので、行蓮を読んで対決させる窯業際に命じた。そこで国道朝臣が行蓮に尋ねて行った。「戌の日に御移りにししょうがあるというのは、なにをてんきょとしているのか」。

 行蓮が答えていった。「所見は無く、人々が言っていることである」。

 国道が言った。「人々の説にはみな謂れ(いわれ)がある。どのような謂れか」。

 行蓮は口を閉じて座を立ってしまった。行西がこの旨を政子に披露し、この話を聞いた人は笑った。その後、番になって政子が気を失われたので、(移動しては)道中できっと亡くなられてしまうであろうと、相州(北条時房)、武州(北条泰時)が相談されたので、国道以下の六人が再び「二十六日乙卯(きのとう)に移られるのがよろしいでしょう。」と、同様に選び申した。

 武州が仰った。「乙卯の日は四不出日で支障があろう」。(四不出日とは、壬子・戌牛・乙卯・辛酉の日で、これらの日に外出するとしに至ると考えられていた)

陰陽師らが申した。「「四不出日には外出を慎みますが、今は御移徒であり支障はありません」。そこで(二十六日と)決定した」。

 

 同年七月六日条、「前権侍医和気定基が昨夜から二位家の(政子)の御治療のために参候している。これはこのところ(丹波)頼経朝臣が治療を加えていたが、御病気の様態がよくなられる見込みがないので、「治療の術が及ぶところではありません。」と辞退したためである」。

 同月八日条、「晴れ。辰の刻(午前八時頃)に二品(政子)が東御所に移られた。これは御病気がとうとう危篤になったためである」。

 嘉禄元年(1225)七月十一日条、「丑の刻(午前二時頃)に二位家(北条政子)が死去された。御年は六十九歳。政子は前大将軍(源頼朝)の後室であり、二代の将軍(頼家・実朝)の母である。前漢の呂后と同様、天下の政務を執り行われた。あるいはまた神功皇后の生まれ変わりとして我が国の根本を護られたのであろうかという」。

 同月十二日条、「寅の刻(午前四時頃)に二品家(政子)の死去が広く伝えられ、出家する男女が多かった。民部大夫(二階堂)行盛が最初に出家した。戌の刻に御堂御所の地で(政子)を火葬した。ご葬儀は、前陰陽助(安倍)親職朝臣が差配した。ただし(親職)自身は参上せず、門人の宗大夫(惟宗)有秀を差し進めったという」。

 

 二品(北条政子)の戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。墓所は鎌倉の寿福寺に実朝と並ぶやぐらに五輪塔が納められている。嘉暦元年、この年に生涯幕府を支えた大江広元と、源家の遺跡よりも幕府と北条家を守り続けた北条政子は死去した。また、政子の同母妹、泰時の伯母にあたる阿波局は、実朝が三代将軍を継承してから『吾妻鏡』にその名を記載されることはなかった。

『吾妻鏡』に政子が死去した二年後の嘉禄三年(1227)十一月四日に伯母にあたる阿波の局が亡くなっている。「御所の女房である阿波局が死去し。武州(北条泰時)の伯母である。(泰時は)三十日の御軽服(けいふく)となるので御邸宅を避けて尾藤左近将監入道道然(景綱)の家に移られたという」。

北条泰時は母が不祥であり、幼少時から母のように育んでくれた伯母二人を亡くした。幕府の重臣であった覚阿(大江広元)も亡くなる。親族として伯父の北条時房、そして異母弟達と子息・時氏、時実らと結束して共に新たなる北条執権体制を確立し幕政に携わっていく。 ―続く―

 

(写真:鎌倉寿福寺 北条政子、源実朝の墓所)