鎌倉散策 北条泰時伝 四十一、旧新交代 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 貞応三年(1224)十二月四日、「改元の詔書が(鎌倉に)到来した。先月二十日に貞応三年を改めて元仁元年となった。尼将軍・北条政子が、後の将軍として育てられていた三寅は六歳になっていた。

 『吾妻鏡』元仁元年(1223)十二月十四日条、「晴れ。夜になって若君(三寅、後の頼経)が武州(北条泰時)の御邸にて出かけられた。女房が皆お供をした。(泰時)のもてなしは殊に美を尽くしたものであったという。これは来る十五日の立春節に(若君が)御方違(おんかたたがえ)のため(泰時邸に)入られるがその日の日没で、初めてひられるには支障があるため、今後、わざわざ初めて出かけられたという。

 

 同月十五日条、「若君(三寅)が御所に帰られた。武州(北条泰時)が引き出物を献上され、御剣は駿河の守(北条重時)が持参し、御馬は三浦駿河二郎泰村・同四郎家村が引いたという」。

 同月十七日条、「武州(北条泰時)が建立している堂の在所は、現在の御館から東方に当たる。そして立春の後は王相方(おうそう)となり、(泰時は)その方向から方違(かたたがえ)するべきであるが、節分の夜は若君(三寅)が御方違のため入られるので、思い悩まれ(安倍)知輔朝臣を招きこのことを相談された。知輔が言った。「仮にその堂を他人に譲渡して完成させるのがよいでしょう。御願寺などについてこのような例はたいそう多くあります」。(泰時は)なお不審が解けなかったため、重ねて(安倍)親職に尋ねられたところ、「追善の事について他人に譲られることは本来の在り方ではありません。(泰時が)御方違できないのであればしばらく工事を中止して夏以後に完成させるのがよいでしょう。」と言った。後者が願主(泰時)の御意に叶ったという」。王相方とは、陰陽道で王相神のいる方角にあり、その方角は「月ふさがる」と称して、移転・建築などを避け、必要に応じて方違え(かたたがえ)を行った。また方違えとは、凶方位とされる方角に向かう前に一度別の方角に仮住まいを行い、引っ越しの先の方位をずらす営みを言う。

 同月十九日、「晴れ。若君(三寅)が立春の御方違として武州(北条泰時)の御館に入られた。左近大夫将監(大江)佐房・大膳亮広仲・三浦駿河前司義村・同次郎泰村・同三郎光村・出羽前司(中条)家長・佐々木三郎泰綱らが供奉した。女房五人も同じく参った」。

 

 同月二十日条、「晴れ。午の刻(午後零時頃)に若君(三寅)が帰られた。武州(北条泰時)がまた御剣・御馬を進上したという」。

 同月二十四日条、「晴れ。伊豆国北条の飛脚が(鎌倉に)到来した。右京兆(北条義時)の後室の禅に(伊賀氏)が去る十二日以後、病気となり、昨日巳の刻から危篤になったと申した

同二十六日条、「このところ疫病が流行していた。武州は特に驚かれていたところ、四角四鏡(しかくしきょう:四角四境祭疫神の災厄を祓うために家の四隅と国の四方の境で行う陰陽道の祭祀)・鬼気祭(ききのまつり:病悩平癒のために行う陰陽道の祭祀)を行って(疫病を)退けるべきであると陰陽権助(安倍)国定が申してこれを行った。その四境とは、東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山内という」。

 元仁二年(1225)の正月は相州(北条時房)の埦飯(おうばん)、若君三寅の御歯固(はがため:正月に歯固の禅を食べて長命を願う儀式)などが行われた。この年には、地震、月蝕、日食、長雨が続き鎌倉では正月から三月まで連日雨が降っていることを記載されている。正月の三箇日の埦飯の献上は、時の権力者に準じて三が日行われる。『吾妻鏡』では、承久の乱後の貞応元年には故北条義時や覚阿(大江広元)の献上が記載されているが、貞応三年から北条泰時が行った事が記載され、その後に時房や弟・朝時などが加わり、北条氏が献上する事となった。

 

 同年三月二十一日条、「御所で、人々が鬮(くじ)を引きいて準備し、引き出物などを整えたという。このところ螢惑星のお告げと称して、京都でもっぱらこのようなことをしていると、六波羅が申し送られたという」。

同二十四日条、「此のところ太白星が点を通過し、変異であると司天らが申したので、今日、御祈禱が行われた。民部大夫(二階堂)行盛が奉行したという」。

 同五月一日条、「弁僧正定豪・大蔵卿法印良信・駿河前司(三浦)義村・隠岐入道行西(二階堂行村)・陰陽権助(安倍国通道)らが召しによって集まった。二品(政子)が行西を通じて仰った。「今世間では病で死ぬ者が数千人に及んでいる。その災いを祓うために、般若新経と尊勝陀羅尼をそれぞれ一万巻ずつ書写して供養したいと思う。まずどのようにすべきか、考え申すように」。僧正(定豪)が申した。「千人の僧侶を招いて、一千部の仁王経を講読されるのがよいでしょう」。また僧正法印(良信)が申した。「嵯峨天皇の御代に疫病が発生して五畿七道で急死する者がたいそう多く、そこで天皇が自ら筆を執って般若心経を書写され、弘法大師(空海)に命じて供養が行われました」。これを踏まえて般若心経などを書写するのがやはりよかろうと決定した。そこで書写供養の日時を選んで申すよう国道に命じられ、(国道は)今月の十四日・二十二日を返答した」。

元仁二年年(1225)五月二日条、「午の刻に京都からの使者が(鎌倉に)到着した。先月二十日に改元があり、元仁二年を改め嘉禄(かろく)元年となった」。

  

 嘉禄元年(1225)五月二十二日、「鶴岡八幡宮で千二百人の僧侶による供養が行われている」。

 嘉禄元年五月二十四日条、「昨夜、雨が降った・日照りで困窮した民の歎き悲しんでいたところ、法合の後に早速この甘雨が降った。そこで諸天が(祈禱に)応えて下さったことが分かった。国土は豊穣を謳歌することになろう」。

 この頃には、『吾妻鏡』において覚阿(大江広元)の政務の関与の記述がなくなり、二位尼政子の記載は、同五月一日条の般若新経と尊勝陀羅尼の書写の仏事供養の記載が最後になった。 ―続く―