承久三年(1221)の承久の乱で北条泰時は、伯父時房と共に後鳥羽院の官軍を打ち破り入京した。戦後の大きな変革に伴い、施策として従来の西国・京都近辺の御家人の管理・統率、洛中の警護・訴訟、そして朝廷と幕府の間の連絡を担うために京都守護を改組して京都六波羅の地に北と南の幕府出先機関を設置する。鎌倉幕府末期には六波羅探題と名称が変わり、この時点では六波羅と称していた。公式文書等の北条泰時・時房連署の六波羅施候状などから探題の名は見られない。
この六波羅の地は、寿永の乱以前は平家の洛中での本拠であった。伊勢平氏の本拠が伊勢国であったため、また東国への交通の要衝路になるため平家の平忠盛・清盛親子が洛中での本拠をこの地に定めた。寿永の乱で平家が都落ちし、その際に焼失させている。乱後、六波羅は源頼朝に与えられ、京都守護に就いた北条時政が庁舎を六波羅に置き駐留した。頼朝は六条堀川に河内源氏代々の館を持っており、時政以降の京都守護は公家や京に在住の長い武士が就いていたため各自の屋敷を持ち、その地に庁舎を構えている。この地は、自ら京に自邸を持たない東国武士の御家人の拠点になった。先述した通り六波羅探題は、鎌倉幕府後期に名称が改められるが、承久の乱前の京都守護と最も違う点は、戦後処理と朝廷の監視機関として付加されたことである。六波羅にて洛中の六条以北に北条泰時、南に北条時房が京に残りその任に就き承久の乱後の戦後処理を行っている。当時は北南に優劣はなく、戦後処理を両名で遂行している。『吾妻鏡』等で何時からかは明記されていない。泰時の在任期間は貞応三年(1224)までで、その後、嫡子の時氏が寛喜二年(1230)まで、その後は、泰時の異母弟・極楽寺流の重時が就任し、寛元五年(1247)までの長い間その職に就いている。一時、就任者のいない時もあったが、鎌倉幕府滅亡時まで六波羅探題として続いた。南方も同様に時房が京に残り元仁二年(1225)まで、その後は時房の長子・時盛が仁治三年(1242)まで就いているが、度々任ぜられない期間が存在している。後に北が上席とされ、鎌倉に帰還した際に得宗家や極楽寺流(北条重時祖)が連署や執権に就く者が出た。また南から北方に転任例もある。しかし、北条泰時の弟・朝時の名越流は一人も探題を出していない。
(写真:京都六波羅蜜寺)
承久の乱前の京都守護の時代は、検非違使の存在が大きく、京都の治安維持は検非違使の職と考えられ、御家人に対する治安維持は京都守護と役割を分けていた。乱後において六波羅設置当初、幕府も六波羅も京都の治安維持は検非違使の職と考えていが、京都周辺の北面・西面の武士等の軍事貴族の解体、また検非違使の任用が低下する。後の天福元年(1233)八月十五日に出された鎌倉幕府追加法六十三条では、関白九条教実と探題北条重時の間で協議され、洛中の強盗・殺人については検非違使庁と共に沙汰を行うこととすると改められる。また文暦二年(1235)七月二十三日に出された追加法八十五項では武士が関与しない刃傷・殺害については検非違使庁の沙汰とし、京都警護に関しては基本的に朝廷及び検非違使庁の責任とすることが示された。朝廷の軍事力解体とその一翼を担う検非違使の強化は、幕府の矛盾するものであった。幕府にとっても京都の警護は経済的に維持費もかさむため警察権と軍事権の分割・分担であると考えるが、現実的な政策ではなかった。朝廷においても検非違使庁の負担は大きく、嘉禎四年(1238)二月二十六日には、上洛した将軍九条頼経が検非違使別当を任じられ、三月七日には辞任している。それを受ける形で篝屋(かがりや)が設置され、六波羅探題に管理が任され警護の責任を回避する事が不可能になった。
(写真:京都御所)
探題は執権・連署に次ぐ重責とみなされ、伝統的に北条氏一族の将来有望な人材が選任され、鎌倉帰還後には執権・連署に着く就く者がいた。幕府の組織として執権、連署、探題、その下に引付頭人、評定衆、引付衆、奉行人と順列されるが、六波羅もそれらの下部組織がおかれた。六波羅は、幕府の直接指揮科の下にあり、西国で起きた地頭と国司等の紛争処理、京都周辺の治安維持、朝廷の官使・皇位決定の取次を行う。承久の乱後の幕府は、仲恭天皇を退位させて後鳥羽院の直系を外し、後鳥羽院の兄・守貞親王の三男・茂仁王(後堀川天皇)を即位させた。しかし、貞永元年十月四日、後堀川天皇から後堀川の皇子で九条道家と室・掄子(西園寺公経の娘)とに生まれた中宮竴子の親王、四条天皇(秀仁親王)へ譲位が行われる。この譲位が道家の独断で行われ、道家は幕府に二度連絡を取り、一度目は擁立の示唆で、二度目は譲位の結果報告であった。幕府は不快の念を持った。そして仁治三年(1242)四条天皇が急死し、後高倉・後堀川流の皇統が途切れる。皇位継承者として土御門上皇の子・邦仁王と順徳上皇の子・忠成王の二人が存在した。九条道家、西園寺公経等は忠成王を押す。しかし幕府は、後鳥羽院、順徳天皇という承久の乱の首謀者であるこの直系を天皇に即位させる訳には行かず、邦仁王を指名し、後嵯峨天皇を擁立する。その背景には順と院の帰京問題も絡んでいた。北条泰時は、再び朝廷との戦の根を絶えさせるための対応であり、この取次ぎを行ったのが、極楽寺流祖となる異母弟の北条重時であった。
元・高麗軍が侵攻してきた元寇の文永の役の翌年、健治元年(1275)には六波羅の御家人所在の権限と裁判制度が充実され、六波羅の機能は強化された。朝廷が従来の六波羅の職務に対し、寺社間の紛争解決、悪党鎮圧、所領訴訟の判決執行の検断権行使を求められ、幕府が朝廷との協調路線を取っていたため六波羅もその流れに従ったと考えられ、また裁断権を有したこの頃に名称が六波羅探題へと改称されたのではないかと考える。この時期鎌倉では、『吾妻鏡』によると不吉な兆しが多く記されており、日常が不安定、もしくはその兆しを示していたと考える。
(写真:鎌倉覚園寺)
応元年(1222)五月十二日条、「申の刻(午後四時頃」に大地震」。六月には日照りが三十日に及び、貞応二年(1223)九月
一日条、「今朝、雨が激しく降り、日中になって晴れた。未の二刻(午後二時)に日蝕があって正現した。三の蝕という」。
同月二日条、「戌の刻(午後八時頃)に大白星(金星)が歳星(木星)に二尺七寸の距離まで接近した」。貞応元年、二年と天災及び怪異が鎌倉を襲っている。
同月三日条、「戌の刻(午後八時頃)に月が大白星(金星)に三尺の距離まで接近した」。
同月四日条、「月が心前星(さそり座シグマ星)に接近した」。
同月五日条、「晴れ、横町当たりの下女が三つ子を産んだという。「女性が三つ子を産むと、官庫から衣食を与えられて養育します。これは国司に記されています」と故実に通じているものが申した。そこで二品(政子)は国雑色三人を遣わして、それぞれ養育するようよくよく命じられた。そのうえ、母親に衣食を同じく与えられたという。今日、御祈祷を行われるよう奥州(北条義時)の御方で内々にその審議があった…このところ続けて転変が出現しているためである」。
同六日条、「下女が生んだ三つ子がいずれも夭折した」。
同月二十六条、「晴れ、戌の刻(午後八時ころ)大地震」と簡潔にきされ、鎌倉を大地震が襲った。
同年十二月三日条、「晴れ丑の刻(午前二時頃)に奥州(北条義時)の御邸宅で光物(光を発する怪異)があったそこですぐに大倉薬師堂(現、二階堂の覚園寺薬師堂)で御祈祷が始められ、新馬を鶴岡八幡宮に奉納された。また七座の招魂祭(死者の霊魂を招き寄せて弔う陰陽道の祭祇、魔除け)がおこなわれるという」。 ―続く―