鎌倉散策 北条泰時伝 三十五、北条政子の恩赦と勲功 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』による承久の乱の記載で北条政子が覚阿(大江広元)が進言する上洛戦闘派であった事は、それらの記載から読み取ることが出来る。しかし上洛が遅れる中、承久三年(1221)五月二十一日条の、評議において病床の三善康信を招き、即刻の兵の上洛を指示して以来政子の名は記載されていない。合戦内容と戦勝による京の戦後処理の記載が続いたためである。戦勝の功労者である政子の喜びを見る事が出来ないが、喜びよりも安堵の様相が思い描かれる。

 『吾妻鏡』六月二十三日条、「去る十六日の北条時房・泰時からの飛脚が今夜丑の刻(午前二時頃)に鎌倉に届いた。合戦は無事に終わり、世の中が静まった経緯を詳細に書き留められた書状を開かれると北条義時の公私の喜びは、たとえ様もなかった。直ちに公卿・殿上人の罪名以下、洛中の事が定められ、大管領禅門(覚阿:大江広元)が文治元年の処置を先例に勘案して計らい、事書(ことがき)を整えた。進士判官代(橘)高国が筆を執って記したという」という記述から、官軍として与した名のある武士や北・西面の武士達は落ちる事も出来ず捕縛され斬首された。また後鳥羽院に与した公卿は、幕府執権北条義時により斬首が下された。泰時は京での執行は、世の混乱を招くため、鎌倉に下向させ、途中で斬首及び入水の裁断を「預かり人」及び、「随行人」に断行させている。下向する公卿たちは、死を逃れるために北条政子を頼ろうとした。そして政子の存在感がここでも表されている。

 

 『吾妻鏡』承久三年七月二十九日条、「入道二位兵衛督(源有雅:先日四十六歳で出家)は小笠原次郎長清が預かって甲斐国に到着した。そこに(有雅が)「少々縁があるので命を救ってくれるように二品禅尼(政子)に申したので、暫く死罪を猶予してその返事を待ってほしい。」と懇願されたが、長清は許さず、当国稲積庄小瀬村で誅殺させた。しばらくして処刑を赦すよう政子の書状が到着したという。早まった処置にきっと亡魂の恨みが残るのであろう」。この小笠原長清は信濃守護家の小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖であり、承久の乱では東山道軍の大将軍として子息八名と共に上洛し戦功をあげた。「七ヶ国官領」となり、公卿・源有雅を処刑後の同年に阿波国守護となっている。そして仁治三年(1242)七月十五日、信濃にて八十一歳で死去した。

同年八月一日条、「坊門大納言(忠信)が遠江国舞沢より京に帰られた。忠信は今度の合戦の大将軍であったが、千葉介胤綱が預かって下向していた。そこに(忠信)の妹の八条禅尼は亡き右府将軍(源実朝)の妻室(信子)であり、その旧縁によって二品禅尼(政子)に申したため、許されたという」。坊門忠信は出家して帰郷したが、その後幕府の処置により越後国へ流罪となる。京に戻り、太秦の辺りで籠居した。寛喜二年(1230)の春には一条大宮に居住し、勅撰歌人として後堀川天皇の命による新勅撰和歌集(五首)、以下の勅撰和歌集に十一首が入首している。没年は不明であるが、嘉暦二年(1236)の後鳥羽院の遠島歌合に道珍の法名で参加しており、暦仁元年(1238)までは存命していた。

 

 同月二日条、「大監物(源)光行は清久五郎行盛が(鎌倉に)伴って下向し、今日の巳の刻(午前十時頃)に金沢洗いに到着した。(行盛は)先ず子息の太郎を遣わして右京兆(北条義時)に知らせた。速やかにその場所で誅殺せよと、義時の命があった。これは関東から数箇所の恩賞を受けながら、院(後鳥羽)に参じて東国武士の交名を注進し、宣旨の副文(備え文)を書いた罪科は他に異なるためである。ところで光行の嫡男である源民部大夫親行は、以前から関東にいて功を積んでいた。父の事を漏れ聞いて死罪を赦されるよう泣いて訴えたが許されなかった。(親行は)重ねて伊予中将(一条実雅)に依頼したので、羽林(うりん:実雅)がこれを伝えた。そこで誅殺してはならないとの書状が与えられ、親行がこの書状をもって金沢洗いに急行し、父の命を救っている。(光行)は小山左衛門尉(朝政)の方に引き渡された。光行は先年(元暦元年四月)、慈父[豊前守光季。平家方に味方して右幕下(源頼朝)がこの事を咎め、光行が下向して愁い訴えたところ赦された]の恩徳に報いたので、今日孝行な子息に助けられたのである」。誅殺を免れた光行は、政治家であり文学者・歌人としても優れ、源氏物語の研究者でもあった。注釈書『水原記』の著者であり、河内本と呼ばれる本文を定めている。その後、北条泰時の命で和歌所・学問所などを設置し、寛元二年(1244)二月十七日に没している。

 

 同八月三日条、「寅の刻に検非違使従五位以下行佐衛門少尉(加藤)景兼法師(法名覚蓮房妙法)が死去した」。頼朝挙兵時からの臣下で、数多くの武功があったが、実朝暗殺時警備の不備の責任を取り出家。承久の乱では宿老の一人として鎌倉に留まっている。享年六十六歳であった。

 同月五日条、「後鳥羽院は隠岐国阿摩郡苅田郷(島根県隠岐郡中ノ島海士町)に到着された。仙洞は翠帳紅閨(すいちょうこうけい)から柴扉桑門(さいひそうもん)に改まり、場所はまた雲海が沈々として南北も知れないので、手紙や使者の便りを得ず、烟波(えんば:靄の立ち込めた水面)が満々として東西に迷うため、また月日の進み具合も分からない。ただ京の仙洞を離れる悲しみ、都を出る恨みで、いよいよ思い悩まれるばかりという」。

同月六日条、「大夫属(たゆうのさかん)入道義信(三善康信)は老衰が重く、命は明日にも知れなかった。そこで門柱所の執事を辞退したので、子息の民部大夫(町野)康俊をその後任に補任したという」。

 同月七日条、「世の中が平穏になった事は(三月二十二日の)二品禅尼(政子)の夢想に符合している。そこで所領を二所大神宮に寄進された。すなわち、内宮の御料として後院領(天皇の経の御所とは別の御所)伊勢国安楽村・井後(いじり)村、外宮の御分として同国の葉和歌・西園両村である。祭主の神祇大副(じんぎたいふ:大中臣)隆宗朝臣に付けられた。藤原朝臣(波多野)朝定がこの寄進状などをもって再び報賽の使節となったという。このほか諸社に同じく寄進が行われた。鶴岡八幡宮の御分に武蔵国矢古宇郷司職(やこうごうじしき)五十余町、諏訪宮の御領は越前国宇津目(うつめ)保などである。叛逆の公卿・殿上人や武士の所領等については、武州(北条義時)が調査して記した分が約三千余箇所あった。政子はこの没収地を武勲の浅深によってそれぞれ配分して与えた。右京兆(北条義時)が執り行ったが、自身の分については針を立てるほどの土地も官領する事がなかった。世の人々はこれを美談としたという」。

 

 『吾妻鏡』承久三年八月九日条、「丑の刻に散位従五位下三善朝臣保信法師(法名善信)が死去した。」とのみ記されている。三善康信は太政官の秘書官を世襲する下級貴族の家柄であった。頼朝の乳母の妹が母のため、挙兵前から京の情勢を月に三度、知らせていた。大江広元よりも早く鎌倉に下向して、広元と同様に文官として、幕府の創建期から、頼朝の臣下として仕える。官位は広元に対して低いが、幕府創建時に門柱所執事という役職を任じられた。無欲で誠実さと公平さが適任であったことを『吾妻鏡』が知らせている。頼朝に仕えて康信は、東国における新しい独立した政権を夢見た。そして承久の乱により、その新しい世を得た事を感じた事だろう。享年八十二歳だった。やがて頼朝挙兵以来の人々が次々に没することになり、鎌倉幕府と執権体制は世代交代していくことになる。

同月十日条、「法橋(ほうきょう:太田昌明)昌明は幕下将軍(源頼朝)の時に功のあった者である。今度の逆乱で勅命があったが、その意思は岩のように固く、関東を見捨てることはなかった。この事が既に二品禅尼(政子)の耳に達していたので、昌明は未だ事情を申してはいなかったが、但馬の国守護職と庄園などの下文を作成して先月遣わした。そこに、昌明が(下文の作成を)知る以前七月二十三日の文書で勲功について記して申し、その文書が今日、鎌倉に到着した。政子はこれをご覧になり、特に感心された。これは去る五月十五日の洛中での合戦以後、武士を招集する事になって、上洛せよとの院宣を持った召使五人が昌明の但馬の国の住居にやって来た。昌明が彼らの首を切ったので、院(後鳥羽)に参じようとする国内の兵士が(昌明)を襲撃した。昌明は、一時これを防戦して深山に立て籠もり、武州(北条泰時)が上洛したと聞いて急ぎ合流したという。右京兆(北条義時時)が言った。「華夷の戦いでは大将の命を受けて上洛し、あるいは矢に当たり、あるいは水に入るなど、人それぞれであった。世の中がどうなるかまだ決まらない時に院使を梟首したのは、関東を重んじていることが明らかで、他とは異なる勲功である」」。

 

 三浦胤義のその他の子息について、『吾妻鏡』には記載がないが、『承久記』古活字本には、十一歳、九歳、七歳、五歳、三歳の五人の子がおり、乳母の尼(内閣文庫本では祖母の尼)養っている。しかし、「胤義其罪重シ」とあり、東国に残していた幼い子たちも長子十一歳の豊王丸を残して処刑され、胤義を京方の中心人物と見なした上での厳罰だった事が窺い取れる。この後、再び北条政子が主導的立場を取りながら泰時の執権就任に尽力する。 ―続く―