承久の乱において時代は、後鳥羽院から北条義時を選択した。しかし、乱後の鎌倉及び関東では、政治的安定を見るが、自然災害等の災いが生じ、乱の三年後の元仁元年(1224)六月十三日、義時は六十二歳で急死する。
『吾妻鏡』貞応三年(1224)六月十二日条、「辰の刻(午前八時頃)に前奥州(北条)義時が病気になった。このところご体調を崩していたが特別なことはなかった。しかし今度はすでに危篤である。そこで陰陽師(安部)国道・知輔・親職・忠業・泰貞らを呼んで卜筮(ぼくぜい)が行われた。「大事には至りません。戌の刻には快方に向かわれるでしょう。」と一同が占い申した。しかし御祈祷が始められた。天地災変祭に坐〔国道・忠業〕…ただし時を追ってますます危篤という」。
同十三日条、「雨が降った。前奥州(北条義時)病気はすでに臨終に近づいていたため駿河守(北条重時)を使者としてこのことを若君(三寅、後の頼経)に御方申された。恩許があって(義時は)今日の寅の刻(午前四時頃)に出家され、巳の刻(午前十時ころ)にとうとう亡くなられた〔御歳六十二歳〕。このところ脚気(かっけ:足の感覚が麻痺し脛にむくみができる病気)の上に霍乱(かくらん:暑気あたりによって起きる諸病の総称)が重なっていたという。昨日の朝から続けて弥陀の法号を唱えられ、終焉の時まで全く緩むことがなかった。丹後律師(頼暁)が善知識としてこれを進めた。(義時は)外縛印(げばくいん)を結び念仏数十回の後に死去した。まことにこれは正しい往生と言うべきであろうという。午の刻(午後零時頃)飛脚を京都に遣わされた。また後室(伊賀氏)も出家し、荘厳房律師行勇が戒師となったという」。脚気はビタミンB1の不足で起こる疾患で、病状として、初期に食欲不振、他に全身のだるさ、特に下半身の倦怠感が生ずる。次第に足のしびれやむくみ、動悸、息切れ、感覚の麻痺などの症状が現れ、さらに進行すると手足に力が入らず寝たきりとなる。そのまま放置すると心不全が悪化して死に至る事もあり当時としては、不治の病であった。しかし『吾妻鏡』にそれ以前の義時の病状の記載は無く、また脚気の病状と異なり、後に義時の死は、脚気の自覚症状が出て病床に臥し、衝心脚気(循環動態の悪化が進行する病態)による急死と考えられる。しかし病状が出て二日という急逝であったために多くの憶測を呼ぶことになる。
義時の死の三年後、『吾妻鏡』安貞元年(1227)六月十四日条には、「六波羅の飛脚が鎌倉に到着した。「去る七日の辰の刻に鷹司油小路の大炊助(おおいのすけ)入道の後見である肥後房の宅で、菅十郎座衛門尉周則が二位法印尊重(尊長:後鳥羽院の側近として承久の乱の首謀者の一人)を捕らえようとしたところ、急に自殺を図りました。まだ死んでいなかったので、襲撃した勇士二人が尊重により負傷しました。翌日八日に、六波羅で尊重は全く息絶えました。」」とある。
『明月記』安貞元年六月十一日条には、捕縛された際に自殺をしそこなった尊重が「早く首を斬れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫び、問い詰める武士達に「今から死ぬ身であるのに、嘘など云わん」とも述べたと言い、六波羅探題の時盛を驚愕させたという。そして、義時の死が伊賀方に毒殺されたとする風聞が流れたと記している。また『保暦間記』には近習の小侍に刺殺されたとも記載される。
『吾妻鏡』とは対照的に京方から見た『百錬抄』においても義時の急死が記され、尊長には異母弟に一条実雅がおり、義時の死後すぐに伊賀氏の変で将軍候補とされた。藤原定家の『明月記』の記載は、尊長の記述には信憑性がある。しかし山本みなみ氏は、尊長と一条実雅は、承久の乱で敵対し、一条実雅は北条義時と伊賀方の娘を娶り、義時の婿である。伊賀方も兄である京都守護であった伊賀季光を京方に討たれ非業の死を遂げている。実雅や伊賀方と尊長が連絡を取り合っていたとは考えにくく尊重の発言は自暴自棄になったためで、信憑性は薄く、死を前にした虚言であったとしている。私見であるが、義時の毒殺説は否定しないが、伊賀方の毒殺説と伊賀の変には疑問を持たざるを得ない。承久の乱、北条泰時の執権就任や伊賀の変において積極的に行動する義時の姉、北条政子が異様に映り、尼将軍として絶対的権力を手中にしたのもこの時期である。伊賀の変は、元久二年(1205)の牧氏事件と類似し、政子による冤罪の可能性が高く、後の泰時の施政時に伊賀氏は赦免されているのも興味深い。政子の子・二代将軍頼家、三代将軍実朝の暗殺の首謀者として北条義時の名が挙げられるが、これが事実であるならば権力を手中に入れた政子の義時への逆襲による毒殺も考えられるのではないか。したがって政子が甥である泰時を執拗以上に早急に執権職に就け事態の安定を計ったのではないかとも考える。
元仁元年(1224)六月十八日条、「戌の刻(午後八時頃)に前奥州禅門(北条義時)の葬送が行われた。亡き右大将家(源頼朝)の法華堂の東の山上を墳墓とした。祭礼については(安倍)親職に命じられたところ辞退し、(安倍)泰貞もまた(先例を記した)文書を持っていないと辞退した。そこで(安部)知輔朝臣が葬送を取り計らった。式部大右(北条朝時)、駿河守(北条重時)、陸奥四郎(北条正村)、同五郎(実義)、同六郎(有時)と三浦駿河次郎(泰村)及び(義時)の宿老の祇候人少々が喪服を着て供奉した。その他に御家人らが多く参会し、それぞれの悲しみに涙を流したという。」。北条義時の葬儀による序列がここで記載され伊賀の方の子息・北条政村は異母兄の朝時・重時に次いで四郎の位置に着いている。
同月十九日条、「(義時の)所七日の御仏事が行われた。導師は丹後律師(頼暁)という。」。
同月二十二日条、「晴。臨時の御仏事が行われた。三浦駿河前司(義村)が行った。導師は走湯山の浄蓮房。一日で法華経六部を書写したという。」。
同月二十六日条、「晴れ。(義時の)十四日目の御仏事が行われた。大進僧徒観基を唱導としたという。今日、未の刻(午後二時頃)に武州(北条泰時が京都から(鎌倉に)到着した。まず由比ヶ浜の辺りに泊まられ、明日、本宅に遷られるという。去る十三日の飛脚が同十六日に入洛したので十七日の丑の刻(午前二時頃)に京を出たという。また十九日に京を出た相州(北条時房)と陸奥守(足利義氏)らも同じく(鎌倉に)到着したという。」。
同月二十七日条、「晴れ。吉日であったので武州が鎌倉の邸宅(小町通りの北西)に移られた。…」。北条泰時が同月二十六日未の刻(午後二時頃)に鎌倉に到着しながら由比浦で過ごし、翌日鎌倉入りを果たしている。これは、鎌倉の状況をまず調べることが重要で、執権の継承問題に対して何らかの不安があったと考えるからである。当時としては義時の急死により泰時は嫡子として扱われていなかったことも考えられている。そして当時嫡子であっても兄弟の力関係(抗争)による結末も考えられた。鎌倉に入るには七口(ななくち)があるが、由比浦に入っていることで極楽寺切通を超えたものと考えるが、泰時が自邸のわずか二キロほど手前の由比浦に留まったのも浜では襲撃に対して見極めることが安易で防戦にも適しているためと考える。泰時が安易に鎌倉に入る事に、身の危険があったからである。その安全が確かめられて翌二十七日に自邸に入った。また、『吾妻鏡』では北条泰時と北条時房がこの日鎌倉に到着したとされるが、他資料において時房は後日鎌倉入りしたともされる。
同月二十八日条、「武州(北条泰時)がはじめて二位殿(政子)の御方に参られた。触穢(しょくえ:神道上の不浄とされる穢に接触して汚染されること)の憚りはないという。「相州(北条時房)・武州は軍営(三寅、後の頼経)の御後見として武家の事を執り行うように。」と政子の仰せがあったという。そしてこれに先立ち、時期尚早かと(政子が)善大膳大夫入道覚阿(大江広元)に相談されると、覚阿が申した。「今日まで(その決定が)延びた事さえ遅いというべきです。世の安否を人が疑っているときです。決定すべきことは早く決定すべきです」。前奥州前室(北条義時が死去した後、世上の噂はさまざまであった。泰時が弟らを討ち滅ぼすため京都を出て(鎌倉に)下向したと、かねてから噂があり、四郎(北条)正村の周辺は落ち着かず伊賀式部丞光宗兄弟は正村主の外戚の家と言うことで執権の事を憤り、伊賀守(藤原)朝光の娘である義時の後室(伊賀氏)もまた、婿の宰相中将(一条)実雅卿を関東の将軍に立て子息・正村をその御後見として武家の成敗を光宗兄弟に任せようと密かに思い企てており、すでに賛同した者もあり、この時に当たり、人々の思いは分かれていたという。泰時の御方の人々がおおよその事を聞いて伝えていたが泰時は事実ではあるまいと言って全く驚き騒がれなかった。その上「必要がある者を除いては来てはならない。」と制止されたので平三郎左衛門慰(盛綱)、尾藤左近将監(景綱)、関左近大夫将監(実忠)、安藤左衛門丞(光成)、万年右馬允、南条七郎(時員)らのみが出入りし、たいそう静まり返っているという」。この日、政子の仰せで、事実上泰時の執権就任が決定したと考えられる。そして、執権就任に対しの風聞が記述された。
元仁元年(1224)六月二十九日条、「寅の刻に掃部助(まもんのすけ)時盛〔相州(北条時房)の長男〕と武蔵太郎(北条)時氏〔武州(北条泰時)の長男〕が上洛した〔去る二十七日に出門していた〕。両人共に世上の噂により「鎌倉に留まります。」と言ったが、時房・泰時が相談されていった。「世が静まらない時は京幾の日との思惑がたいそう気にかかる。早く洛中を警護するように」。そこでそれぞれ出発した。時房は現在、何事においても泰時の命に背かれないという。今日、六月祓は行われなかった。(義時死去の)触穢のためである。天下諒闇〔りょうあん:天皇・院などの死去により服喪。ここでは後高倉院(守貞親王)〕の時には行われないと定められたという。」。
この日の「時房は現在、何事においても泰時の命に背かれないという」は、泰時の執権就任が決定したと事を編纂時に補足説明的に記載されたと考える。北条政子は当初執権を二人制と考えていたとされ、後に泰時の補佐を時房に託し連署という役職を造り、時房を初代連署に就かしたと考えられる。 ―続く