鎌倉散策 北条泰時伝 三十、承久の乱 近江国へ進軍 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)六月八日、美濃国藤原秀康、五条有長が美濃国の合戦で負傷しつつ京に帰洛した。後鳥羽院に官軍の敗北を奏聞したことで、人々は顔色を変え御所中が騒動となる。女房や上下北面の武士・医師・陰陽師の者が東西に走り乱れた。幕府方、北条時房・泰時は近江国に軍を進めていた。

 

 『吾妻鏡』承久三年六月八日条、「後鳥羽院、土御門院、順徳院の三院と六条親王、冷泉親王は、まず尊長法印の押小路河原(加茂川の河原付近)の宅で諸方の防戦についての評定が行われた。夕方になって(比叡)の山上に御幸され、内府の源通光、藤原定輔・親兼・信成・隆親・尊長法印等がそれぞれ甲冑を纏い御供に祇候した。また、密かに主上(仲恭)も女房輿を用いて行幸された。職事(朝廷の公事を担当する蔵人)の藤原資、頼源実朝は直垂で御供祇候し、剣璽は御輿の中にあり大納言局(大相国・藤原公房の娘主)が付き添ったという。主上・後鳥羽院は西坂本(京都市左京区一乗寺。修学院付近)の梶井御所に入られ、両親王は比叡山東麓の坂本にある日吉社の守七社の一つ十禅師(じゅうぜんじ)に泊まられたという。右幕下の藤原公経親子は因人のように召し連れられたという」。しかし翌九日に延暦寺からの返答が届き、「衆徒の微力」では「東士の強威」を防ぎ難いという物であった。

 同月八日条、「北条朝時・結城朝広・佐々木信実の北陸軍は越後国の小国源平三郎頼綱・金津蔵人資義・小野蔵人時信らを率いて上洛していたところ、越中国般若野庄で、宣旨が到来した。佐々木次郎実秀が、冑(かぶと)を付けず陣営に立ってこれを読んだ。「士卒は勅命に応じ右京兆(北条義時)を誅殺せよ。」との事である」。その後、官軍の宮崎定範・糟谷有長・仁科盛朝・友野遠久等が加賀の住人の林次郎・石黒三郎と、その在国の者を率いて合戦に及んだが、結城朝広の勲功により、有長は討ち取られ官軍は敗れた。林次郎・石黒三郎は北条朝時結城朝広の陣に投降している。また。北条泰時は美濃国不破郡の野上宿(岐阜県不破郡関ケ原町野上付近)に逗留していた。

 

 『吾妻鏡』によると、尾張での大勝の報告は、まだ鎌倉に届いていない。鎌倉で、この日の戌の刻(午後八時頃)、雷が義時邸の釜殿(湯や飯を炊く釜を置いた場所)に落ち、人夫一人が亡くなっている。義時は、たいそう恐れ大官令禅門(覚阿、大江広元)を招き相談した。

「泰時らの上洛は朝廷に逆らい奉るためである。そして今この怪異があった。或いはこれは運命が縮まる兆しであろうか」と尋ねた。広元は、「君臣の運命は皆、天地に掌(つかさど)るものです。よくよく今度の経緯を考えますと、その是非は天の決断に仰ぐべきもので、全く恐れるには及びません。とりわけこの事は関東ではよい先例です。文治五年に故幕下将軍(源頼朝)が藤原泰衡を征討した時に奥州の陣営に雷が落ちました。先例は明らかですが、念のために占わせてみて下さい」。

覚阿(広元)が答え、安倍親職・泰貞・宣賢らに占わすと最も吉であると一致したと記されている。『吾妻鏡』が記載するこの記事は、義時の人となりを窺い知ることが出来、頼朝生前時からほとんど戦での武功の記載は無い。また、承久の乱の出陣が逆臣の行為ではなく、天命による物と見せる節があるが、これら義時の小心さを疑う記述とし、編纂されるべきことかと疑問に思う。義時が姉政子を背景として幕政を担う者であったと私は考える。

  同月九日条、「後鳥羽院は坂本におられ「ひたすら山門(延暦寺)だけを頼りに思っている。」と仰った。しかし「衆徒の乏しい戦力では、東国武士の強大な力を防ぐことはできません。」と奏聞があったので、還御すべきかどうか評議したところに、右京兆(北条義時が誅殺されたとの噂が入り、人々は一時喜んだという。また右幕下親子(西園寺公経・実氏)を斬罪にされようとしたが、異議があって斬罪を止められたという」。

 

(写真:比叡山延暦寺)

 『増鏡』では、後鳥羽院が日吉神社にお忍びで参詣された。御本殿の御前で終夜御念誦なさって、夜が少し明けて静かになったころ、臥していた幼い童が急に物に恐れて院の御前に走り、神がかかりになって神意を告げた。

「「恐れ多くも院直々にこうしてお出ましになってご愁訴なさるので、聞き過ごしにくい事ではありますが、先年の神輿振りの時、無情にも防がせなかったため、衆徒が私を恨んで、左衛門の陣のかたわらに振り捨ててしまいましたので、いたずらに馬や牛の蹄に踏みにじられました事は、今でも恨めしく思っております。よって、今回お見方になる事は致しますまい。山王七社の神殿を皆金銀で磨き立てようと承りましても、全く承知いたしません」と大声で叫ぶと、生きたえだえの様子で横になった。それをお聞きになる御心持はたとえようもなく情けなく感ぜられるにつけても、御泪だけが流れてくるのであった。過ぎ去った事が後悔され、取り返したく思われる。種々過ちをお詫び申し上げになった。日吉の神輿を防ぎ申しあげたと言う事は、必ずしも御自身考えつかれた者でもなかったのだろうが、「すべての責任は天子御一人にある」と言う事であろうか、とどうしようもなく憂欝である。中院(土御門院)は不満足のまま退位なさってから、言葉に出してこそおっしゃらないが、世の中が大変不快に思われるままに、こういう追討の騒ぎにも特に御関与なさらぬようである。因院(順徳院)は後鳥羽院と御同心で、万事戦争の事などもしじなさる」。

 

 『百錬抄』に「乱の直前の承久三年六月八日日吉に御幸があった」と記され、後に結果論から生まれた説話と思われるが『増鏡』が単なる歴史徐実の所ではなく、物語文学としての具しょう性を備えているのも興味深い。そして土御門院が中立的立場を保ち、順徳院が後鳥羽院と共に承久の乱の主戦論者であったことが当時においても確認されている。この神輿鰤の強訴は、『吾妻鏡』健保六年(1218)九月二十九日条に記述され、去る九月二十一日、石清水八幡宮別当の法印宗清が鎮西の筥崎宮の社務職をしていたところ天台末寺の大山寺の船頭である長交安が筥崎宮留守の相模寺主行遍と子息・左近将監光助に殺害され、比叡山の衆徒が洛中にて蜂起し神輿を振り強訴した。後鳥羽院が北面の武士を遣わし防御し、閑院殿の門に迫る神輿を在京の加藤光員・後藤基清・大友能直・佐々木広綱等が急ぎ参って防いだ。加藤光員の子息・光資が八王子(日吉社の一社)の駕輿丁(かよちょう:神輿などを担ぐ職の者)の腕を切り落とし神輿が落ち穢れた。延暦寺の衆徒は、神輿を振り捨て延暦寺に戻った。衆徒等は日吉の神の威徳の薄さを恨んだという。院朝寄りに書かれた『増鏡』においても、後鳥羽院の失政を記載していることが興味深い。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像 順徳天皇像)

 『吾妻鏡』承久三年(1221)六月六月十日条、「主上(仲恭)・三院(後鳥羽・土御門・順徳)は梶井御所より高陽院殿に帰られた。白川の辺りでそれぞれ牛車に乗られた。土御門院と冷泉宮(頼仁親王)が同乗され、新院(順徳)と六条宮(雅成親王)が同乗されたという。今日、右幕下親子(藤原の公剛・実氏)が勅勘(天使から受けるおとがめ)を許されたという」。 

同月十二日条、「再び官軍が諸所に派遣された。三穂崎(みおがさき:三尾崎、滋賀県高島市)に美濃竪者(りつしゃ)観厳と一千騎。勢田には山田重忠・伊東左衛門尉と山僧が三千余騎を率い。食(じき)渡には大江親広・藤原秀康・小野盛綱三浦胤義と二千余騎、鵜飼瀬(うかいせ)には藤原秀澄と一千騎。宇治には源有雅・藤原範茂・朝俊・伊勢前司清定・佐々木広綱・敬重・小松法印(快実)と二万余騎。真木島(まきしま:宇治川が巨椋池に流入する中洲)に安達親長、芋洗には一条信能・二位法印(尊長)。淀渡には坊門忠信が就いた」。このように官軍の総数は、二万七千騎から三万騎ほどの兵力で、最後の攻防を迎えることになる。 

  

 この日の北条泰時は、近江国野路(滋賀県草津市野路町)辺りで陣形を整えるため休息していた。小山朝長に従っていた下河辺行時が長年泰時を慕っており、「一族とは別の場所で武州殿(泰時)のため傷つき死ぬのは日頃の本懐」と言い泰時の陣に加わっている。その時、酒宴の最中で、泰時は行時を見ると大いに喜び盃を置いて上座に招きその盃を泰時は行時に与え、子息の(北条)時氏に乗馬を引かせた。また行時が伴った郎従や小舎人童(こどねりわらわ:身辺雑用を勤める少年)に至るまで陣幕の側に召して食事などを与えたとされ、泰時の思いやりに、見る者は益々勇気を奪い立たせたと言う。 

 『吾妻鏡』には、宇治・勢田の合戦には幕府側は十九万騎の軍勢に膨れ上がったと記載される。官軍は藤原秀康が総大将で二万七千五百余騎であったと言われ、宣旨により兵力の増強は京周辺では成功しているが、畿内においては遅れた。また、出兵したが、上洛する前に勝敗が決してしまった事例もある。幕府軍が五月二十二日に泰時が十八騎で鎌倉を発った時から二十二日の間に京に攻め上る陣形を整えた。この早急な動きに後鳥羽院は読み取る事が出来なかった。また、官軍として上洛を考えていた武士達もいたが、上洛する前に戦が終わってしまったとされる。後鳥羽院の宣旨による増兵の影響力は少なかった。 ―続く―