北条泰時が鎌倉を出陣した後、尾張付近まで官軍の抵抗はなかった。
『吾妻鏡』承久三年(1221)六月三日条、「関東の大将軍が遠江国府に到着したと伝える飛脚が京に入ったので、公卿僉議(せんぎ)が行われ防戦の為官軍を諸方に派遣され、今日の明け方にそれぞれ出発した」。『吾妻鏡』『承久記』「慈光寺本」「流布本」とで相違があるが両書の陣容をまとめると、北陸道に宮崎定範、糟屋有久、仁科盛朝、大江能範。東海道・東山道は美濃国の要害に対する配置が行われ、阿井渡(あいのわたり)蜂谷入道。大井戸渡は、大内惟信、五条有長、糟屋久季に西面の武士二千余騎。鵜沼渡は斎藤親頼、神地(こうずち)頼経等一千四騎。板橋は、朝日判官代頼清、開田重国等一千余騎。火御子(ひのみこ)内海、御料、寺本。池瀬(伊義渡:いぎのわたり)は、関左衛門慰政泰、土岐判官代光行、懸橋、上田一千余騎。摩免戸(まめど)藤原秀康、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義等一万余騎。食渡(じきのわたり)は山田左衛門、臼井太郎入道(常忠)、惟宗孝親、下条、加藤判官、等五百余騎。上瀬に滋原(しげはら)左衛門、源(渡辺)翔(かける)等五百余騎。稗島(ひえじま)矢野次郎左衛門、愿左衛門長狭判官代、長瀬判官代等五百四騎。墨俣は藤原秀澄、山田重忠等一千余騎。市脇(市川前)は加藤光員(光定)等五百余騎の以上一万七千五百四騎が陣に着いている。
藤原秀康・秀澄兄弟は院近臣の武士、大内惟信、五条有永、佐々木広綱、小野盛綱、三浦胤義等は在京御家人、源翔は西面の武士。山田重忠・重継親子、蜂谷、懸橋、神地、内海、寺本、開田、懸橋、上田は美濃・尾張の武士で構成された軍勢である。『承久記』「慈光寺本」「流布本」によると「一万九千三百二十六騎」と鎌倉方の十分の一であった。官軍は守備の場所を備え、六月五日に『承久記』では、幕府軍は、「六月五日辰の時に、尾張の一宮に着いて、戦の手分けがされた。大炊の渡(大井戸の渡)へは東山道の手、定めて向かわせて鵠沼の渡へは毛利蔵人入道、板橋へは狩野介入道。気が瀬(池瀬)へは足利武蔵前司、大豆の渡(摩免戸)へは相模守時房、墨俣へは武蔵守(北条泰時)・駿河守(三浦義村)が向ける」。と記され、『吾妻鏡』の北条時房と泰時の配置が逆に記述されている。その日の内に幕府軍の東山道軍は大井戸の渡を渡り戦が始まった。東海道軍もその日の内に各所に進軍し翌日の明け方に各所の渡を渡った。
『吾妻鏡』承久三年(1221)六月五日条、「辰の刻(午前八時頃)に関東の両将(北条時房・泰時)が尾張国一宮の辺りに到着し、合戦の評議が開かれた。ここから方々の道に分かれ、東山道の鵜沼渡には毛利季光、池瀬には足利義氏、板橋には狩野宗茂、摩免度には北条泰時、三浦義村、東海道の墨俣には北条時房、安達景盛、と武蔵の御家人・豊島、安達、江戸、河越が就くことになった。その夜、東山道の討手である武田信光・信政・小笠原長清、小山朝長らが木曽川を渡り大井戸・河合の官軍に戦いを挑んだ。官軍の大将・大内惟信以下は(子の帯刀惟忠を討たれ)逃亡し、五条有永、糟屋久季は負傷し、(藤原)秀康、(佐々木)広綱、三浦胤義以下は皆、警護していた場所を放棄して京に帰ったという」。
この合戦で蜂谷入道は負傷、子の蜂谷三郎は討たれており、幕府の軍勢が夜討ちの遊撃的戦術を用い勝利した。武田・小笠原の東山道軍は鵠沼渡しに向け進軍する。
同六日には、幕府東海道軍と官軍側が尾張河渡河で初めて遭遇し合戦となった。『吾妻鏡』同日条、「今日の明け方、武蔵太郎(北条義時の長子)時氏・陸奥六郎(北条)有時が少輔判官代(大江)佐房・阿曽沼親綱・小鹿島公成・波多野経朝三善康知・安保刑部丞実光らとともに摩免戸を渡った。官軍は矢を放つことなく敗走した。山田重忠一人が留まり伊佐行政と戦ったが、重忠も逐電した。鏡右衛門尉久綱はこの場に留まり、姓名を旗に記して高くそびえ立つ岸に立置き、佐房と合戦した。久綱が「臆病な(藤原)秀康に付き従ったため、思う様に合戦が出来ず、非常に後悔している」。とうとう自害し、(佐房)は旗の名を見て悲涙を拭ったという。(北条)時氏が筵田(むしろた:美濃国席田群、現岐阜県本巣市の旧糸貫町付近)に到着すると、官軍三十人ほどが待ち構えており、合戦となった。楯を背にした精鋭が東国武士を射ることは数回に及んだ。時氏は康知、中山重継らに命じて矢を討ち返させた。波多野義重は先陣を進んでいたところ、矢が右目に当たり、意識が朦朧としたものの、応戦の矢を射たという。官軍は逃亡し、総じて株河(くいせがわ:大垣市の西部を経て養老郡養老町大野付近で牧田川にそそぐ河川)・墨俣・市脇などの要害はすべて敗れ去った」。
『承久記』において、この戦いで北条泰時も河辺に立ち、陣頭指揮を行った。泰時の郎従・高枝次郎が奮戦したが前身二十三ヵ所の傷を負い、重症に至る。泰時は労わり、「武蔵の国の住人高枝次郎なる者六月六日杭瀬川の戦に数多の負傷を蒙り、療治叶い難く存じますので送還いたします。随分に忠を尽くしましたので、難とかして助かりますよう、御手当てを願います」と義時に書状を認め、使者一人を添えて鎌倉に返した事が記され、泰時の人となりを見る事が出来る。
三浦義村は摩免戸(まめど)渡の攻口を担っていたが弟胤義も朝廷側として摩免戸ノ渡を固めており、三浦一族で兄弟同士の戦が始まろうとしたが、その軍勢の多さに官軍は矢を放つことなく胤義は陣を放棄し京に逃走したとされる。院近臣の武士で海道大将軍である藤原秀澄は、その軍勢を十二ヵ所の木戸に分散させる戦術を取った。その結果、各木戸の兵力は減少し、明らかな失策であったと「慈光寺本」でも「哀レナリ」と叙述している。また、一箇所に軍勢を集中させ防戦することは危険が伴うが、幕府軍の同数勢力や小勢力と対峙する事も有効である。本来は、幕府の弱小と見られる軍勢に対し遊撃戦を加えて勝利する事で士気も上がり、時間稼ぎになっただろう。局地戦での勝利により周辺及び畿内での官軍に加わる軍勢も出る可能性もあった。
官軍を下向させた後にも後鳥羽院は追討宣旨を発して在京・畿内在国の武士や荘官、寺社、公卿の兵力を招集したが寺社勢力の参陣拒否や荘官等の本意ではない参戦で、相次ぎ十分な兵数の招集が出来なかった。後鳥羽院の招集計画も甘く、藤原秀澄の尾張・美濃の戦いでの失策等は、攻勢から受け身に転換し、その後の戦局に大きな影響をもたらす。
翌七日条、「(近江国に入る前に)相州(北条時房)・武州(北条泰時)以下東山道・東海道の軍兵は野上宿(美濃国不破郡の現岐阜県不破郡関ケ原町付近)と垂井宿(現岐阜県不破郡垂井町付近)に陣を構え、合戦の評議を行われた。(三浦)義村が計略を申した。
「北陸道の大将軍が上洛する前に、兵を東国への要衝に派遣されるのがよいでしょう。そこで、勢田には相州(時房)、手上(たのかみ:現滋賀県大津市黒津付近の瀬田川の浅瀬)には城介入道覚智:安達景盛)・武田五郎(信光)宇治には武州(泰時)、芋洗いには毛利入道(西阿:季光)、淀渡には結城左衛門の丞(朝光)と義村が向かいます」。泰時は承諾し、それぞれ異論はなかった。駿河次郎(三浦)泰村はは父義村に従い、淀の方面に向かうべきであるが、泰時に同行するためにその仁に加わったという」。
大勢は北陸軍を待ち、京に総攻撃をかけると言う流れになったが、そこで三浦義村が計略を申し出た。「今は、わが軍が勝ちに乗りたり。北陸軍の到着を待って日を送れば、敵勢も防戦の構えを固め、直ちに攻めあがるべし」と。しかし義村には、弟胤長が官軍に就いていたために三浦泰村は、父義村と同行せず、泰時の陣に加わる」。推測だが義村の裏切りを拒むための人質ではなかったかとも考えられている。
同八日条、「寅の刻(午前四時頃)に藤原秀康、五条有長が負傷しつつ京に帰り後鳥羽院に奏聞した。「去る六日に摩免戸にて合戦に及び官軍は敗北いたしました」。人々は顔色を変え御所中が騒動となり、女房や上下北面の武士・医師・陰陽師の者が東西に走り乱れた。坊門忠信・源定道・源有雅・藤原範茂以下側近の公卿らは宇治・瀬田・田原(京都府綴喜郡宇治田原)の防護に向かっている。その後、鳥羽院は、比叡山延暦寺の僧兵に期待し比叡山に御幸した。後鳥羽院、御直衣・御腹巻で日照り笠を差された。女院・女房達は皆牛車に乗り、上皇は御直衣・御腹巻で、土御門院・新院(順徳)は御布衣、六条親王(雅成)・冷泉親王(頼仁)は御直垂(直垂)で皆、御騎馬であった。…」とされる。 ―続く―