鎌倉散策 北条泰時伝 二十八、承久の乱 泰時等十八騎の出陣 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年(1221)五月二十二日、北条泰時が僅か十八騎で京に進軍した。 大江広元・三善康信が予測した通り、各地の御家人達は三方面の各大将の下に集積していくのである。

 同二十三日条、「右京兆(北条義時)・前大膳大夫覚阿(大江広元)、駿河入道行阿(中原季時)、大夫属入道善信(三善康信)、隠岐入道行西(二階堂行村)、壱岐入道(定蓮・葛西清重)、筑後入道尊念・八田知家)、民部大夫(二階堂)行盛、加藤大夫判官入道覚蓮(影廉)小山左衛門尉朝政、宇都宮入道蓮生(頼綱)、隠岐左衛門入道行阿(二階堂基行)、 善隼人入道善清(三善康清)、大井入道(実平)中将右衛門家長以下の宿老は上洛せず、それぞれ鎌倉に留まりあるいは祈祷をさせ、あるいは派遣する軍勢を徴発するという」。

 同二十五日条、「去る二十二日から今日の明け方までに、しかるべき東国武士はすべて上洛し、京兆(北条義時)の下で交名(こうみょう:出陣した御家人や郎党の名と人数)が書き留められた。それぞれ東海道、東山道、北陸道の三道から上洛するよう命じられ、軍勢は総勢十九万騎である」。  

『吾妻鏡』のこの記載が真実であれば、この十八騎の出陣が、覚阿(大江広元)、善信(三善康信)の進言が、東国武士が雪崩のように集積した要因である。

 

 各御家人は各地に所領を分散していたため、東海道、東山道、北陸道沿いに所領地を持つ御家人は、その地の代官、郎従を引き連れ拡大して行く。 これらの人数も交名に含まれていたと考える。 この早急な対応は、的確な情報と迅速な対応の決断によって行われたが、東国武士が、恩賞にこだわる打算的に動く面が大いにある一方、独立的・自治権を得た東国の武士が、再び律令国家、また院の専制国家として戻る事に躊躇し幕府方に従軍したとも考える。

東海道軍の大将軍は、相州(北条時房)、武州(北条泰時)・同太郎(時氏)、武蔵前司(足利)義氏、駿河前司・(三浦)義村、千葉介胤綱。 従う軍勢十万余騎。

東山道軍の大将軍は、武田五郎信光、小笠原次郎長清、小山新左衛門尉朝長、結城左衛門慰朝光。 従う軍勢五万余騎。

北陸道軍の大将軍は、式部丞(北条)朝時、結城七朗朝広、佐々木太郎信実。 従う軍勢四万余騎であった。

 

『吾妻鏡』二十五日条を続ける。 「今日の夕方になって泰時は駿河国に到着した。その時、安藤兵衛尉忠家は、このところ(北条)義時の命令に背くことがあって駿河国で謹慎していたが、泰時の上洛を聞くと馬に乗ってやって来て(軍勢)加わった。 泰時は家忠に言った。 「お前は謹慎を受けている者である。同道するのは良くない」。 忠家が答えた。 「手順を踏むのは平穏の時の事です。命を戦いで棄てるために出発した以上、鎌倉に申さずとも何事がありましょうか」。 とうとう付き従ったという」。

この安藤忠家という男は、建暦二年(1213)金窪行親とともに和田胤経を謀叛のかどで捕縛尋問し、胤長の所領を行家と分割し下賜された。 和田義盛、公暁の首実験、源頼朝を暗殺した公卿の首の県文も担当している。 謹慎を受けた理由は定かではなく、泰時は一度は忠家の随従を拒んだが、随従を許しており、同年六月の宇治川の合戦で柴田兼高の軍に参戦し奮戦している。

同月二十六日には、鎌倉の鶴岡(八幡宮)・勝長寿院・永福寺・大慈寺で百人の僧侶を招いて地黄般若経を読誦し、鎮護国家・万人豊楽を願う法会の仁王百講祈禱が、関東で初めて行われている。 また、右京兆(北条泰時)の祈禱で、属星祭(ぞくしょうさい)が(鶴岡)若宮でおこなわれた。 町野康俊・清原清貞が奉行咲いて、百日の天曹地府祭が始められた。 鎌倉に留まる北条義時、大江広元、中原季時、三善康信・康清、二階堂行村・行盛・基行、葛西清重、八田知家、加藤景廉、小山朝政、宇都宮頼綱、大井実平、中条家長らの宿老は神仏の加護を得るため祈禱に頼るしかなかった。

  

(写真:ウィキペディアより引用 富士川、東山道図)

同日条「武州(北条泰時)は手越駅(駿河国有度群:静岡県静岡市駿河区手越付近)に到着した。 信濃国の武士の春日刑部三郎貞幸が信濃国からここにやって来て合流した。 武田・小笠原と合流するよう命令があったが、契約があると言い泰時に合流し従ったという。 今日の夕方(藤原)秀澄が美濃国(去る十九日に官軍を派遣して所々の関が固められていた)から京都に飛脚を進めて申した。 「関東の武士が官軍を破るため、間もなく上洛しようとしています。その軍勢はその軍勢は雲霞(うんか)のような大軍で、仏神の御加護が無ければこの天災を退ける事は出来ないでしょう」。 これにより院中はようやく慌てふためいた。 参院(後鳥羽・順徳・土御門)が立願されることになり、五社に御幸されたという」。

春日刑部三郎貞幸は、「契約があると言い泰時に合流し従った」と記されているが、契約の内容が定かではない。 北条時房・泰時の本体が主流であり、合流する事で勲功の道が拡大するとも考えられ、また、宇治川の合戦記を見る上で、泰時の信奉者でもあった可能性が高い。 後に貞幸は、宇治川の合戦で先陣争いをして官軍の矢が馬にあたり、水中に沈むが短刀で鎧を切り外し、従者の弓に助け上げられた。 貞幸に従っていた子息・郎従以ここで下七人、ここで溺れ死んでいる。 また、貞幸は、泰時を助けた事で、乱後の功名は先陣にも優ると鎌倉で評価されたと言う。 その仔細は宇治合戦で述べることにする。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像、北条泰時像)

 同月二十七日条に幕府は、院宣の勅使である押松丸に進士判官代橘隆邦が書いた宣旨の請文を持たせ京に返した。 『承久記』(流布本)には、請文の内容として、「義時昔より君の御ん為に忠義を有りて不義なし。 然るに讒奏(天皇(上皇)に人を陥れるために悪を告げしらせること)する者がいて、勅勘(天皇に咎めを受ける)の身とまかりなる上は、とかく申すに及ばず。 軍(戦を)御好まれるならば、舎弟時房、子にて泰時・朝時、これ等を始めて、東海道十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎、十九万騎を参らせ候。 是等に軍能(欲)させて御見物有し候。 猶(なお)飽き足らずと思召されるならば三郎重時・四郎正村、これらを先として二十万騎を相具(連れな)して、義時も急ぎ参らんとするにて候」と記されている。

『吾妻鏡』五月二十八日条、「雨が降った武州(北条泰時)は、遠見国天竜川に到着、連日の洪水で船の使用に支障があるはずのところ、この川は全く水が無く、皆歩いて渡った」。

 同月二十九日条、「雨が降った。 佐々木兵衛尉太郎信実(北陸道大将軍・北条朝時に兵衛盛綱法師の子息)が北陸道の大将軍(北条朝時)に従い上洛した。 越後国加地庄の願文山に乱逆の首謀者である阿波宰相中将(藤原)信成卿の家人・酒匂(さかわ)家賢が一味六十余人を率い越後国加地庄の願文山に立て籠もったので、信実がこれを追討した。 関東武士が官軍を破った最初の合戦である。 相州(北条時房)・武州(北条泰時)らが大軍をひきいて上洛した事を、今日(後鳥羽院が)聞き及ばれたという。 院中はみな(驚き)肝を冷やしたという」。

同月晦日条、「北条時房が遠江国橋本駅(遠見国敷智群:静岡県浜名郡新居町付近)に到着した。夜になって勇士十余人が密かに時房の大軍に紛れ込み、先陣に進み出た。 (時房が)不審におもって内田四郎に尋問させた。 「仙洞(後鳥羽)に祇候している下総前司小野盛光の近親である筑井太郎高重が、上洛する。」という。 そこで高重を誅殺したという」。

承久三年(1221)六月一日条、「押松丸が帰洛して高陽院(かやのいん)殿に参り(後鳥羽院より)関東の事情を尋ねられた。押松が申した。「 (鎌倉に)到着した日から上洛の道中に至るまで心を悩ませていました。 官軍を破るために京に参上しつつある東国武士は幾千万とも知れません。院中の人々は早急な出陣と、その兵数に驚くほかなかったという」。

  

 『承久記』「流布本」においては、「押松(押王丸)が外陽院殿(高陽院)に駆け付け、公卿・殿上人が、「鎌倉では院宣に応じて、義時追討の合戦をしているのか、それとも院に抵抗しようとしているのか」問い詰めると、うち伏せて涙に咽て物も言うことが出来ず、やがて涙を拭いて心を静めて申した。

「… 同二十七日、権大夫(北条義時)の前に召し出され、申されたのは東海道十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎、三道より十九万余騎を進められると。 鎌倉より帰路、東山道と北陸道は見ておりませんが、東海道は十万余騎、鎌倉を出た日より少しも馬の足の並ばず所無く、一町(約百十メートル)とも旗の靡(なび)かぬ所はありませんでした。 このように続けば、いずれ百万騎にもなるかもしれません」。 その言葉に卿・殿上人は、笑いつつも、皆青ざめて趣を失いどの様になるとも思えぬ有様であった。 しかし、一院(後鳥羽院)は気後れした様子も見せずに、「よしよし、もう何も言うな。武士共が上洛した後に義時の首を取って進む者もある」と、仰せられた。」 と記されている。 『吾妻鏡』『承久記』において後鳥羽院の楽観的な様相が記されている。 ―続くー