北条泰時が大将として戦場を経験する二度目の時が来た。『吾妻鏡』、は経時的に記載され、『承久記』、においては四軍記物語の一つとして「承久の乱」を詳細に記している。またこれらの各資料において、この乱の主戦論者が北条義時、及び泰時のいずれを指していたのか描かれ興味深い。また泰時の人間性が物語れており、『増鏡』の義時・泰時の記述には、後々の『明恵上人伝』に繋がる面白さがある。
『吾妻鏡』承久三年(1221)五月二十一日条は続く。「今日、天下の重大事などを再び評議が行われた。住むところを離れ、官軍に敵対して不用意に上洛するのはどのようなものかと異議が出たためである。前大膳大夫入道(覚阿:大江広元)が、
「上洛と決した後に日が経ったので、とうとうまた異議が出されました。武蔵国の軍勢を待つのも、やはり誤った考えです。日時を重ねていては武蔵国の者らであっても次第に考えを変え、きっと心変わりするでしょう。ただ今夜中に武州(北条泰時)一人であっても、鞭を揚げて急行されるならば、東国武士はすべて雲が龍に靡(なび)くように従うでしょう」。
前大膳大夫入道(覚阿)が、提言すると京兆(北条義時)は、感心した。ただし、大夫属入道義信(三善康信)も宿老であり、このところ老衰が重くなり(自宅)に籠っていた。政子が招いて相談すると、善信は、衰えた身体を起こし集まったもの者達に言い放った。
「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。あれこれ論議しようとするのは愚かな考えで、兵を京都に派遣することを強く望んでいたところ、日数が経過したのはまことに怠慢と言うべきです。大将軍一人は、まず京へ向け出発されるべきでしょう」。
その言葉を聞いた義時は、
「両社の意見が一致したのは神仏の御加護であり、早く出発せよ」と泰時に指示した。そこで泰時は今夜、門出して藤沢左衛門慰清親(藤沢親貞の男、信濃国の諏訪氏庶流の武士)の稲瀬川の宅に宿泊したという」。
この事態に即時上洛にて決戦を主張したのが武士ではなく、頼朝臣従の文官であったことに興味を持つ。私自身が、「承久の乱」において最も心打たれる場面である。『吾妻鏡』を読む者にとって三善康信は、実務的、合理的で温厚な人物として印象付けられる。私自身がこの場面を記すると、
「関東の安否は今、最も重要な局面を迎えました。あれこれ論議しようとするのは真に愚かな考えです。直ちに兵を京都に派遣することを強く望んでいたところ、日数が余りにも経過したのは真に怠慢と言うべきです。大将軍の一人は、まず京へ向け出発されるべきでありましょう」。
(写真:ウィキペディアより引用 承久記絵巻)
京の中下級文官であった大江広元、三善義信は、幕府草創期に源頼朝に従い、政所別当、門注所執事の文官として最大に貢献した人物である。政所別当としての行政と京の朝廷との対応を提言し、門注所別当は裁判における審裁資料等の作成、手続き、記録を担う者として御家人統制の幕府の根幹を担う者であった。彼らは、京都に生まれ、朝廷の中下級貴族の役人であった事から、朝廷の慣例や京都の情勢に詳しく、彼ら二人の分析能力は、治承・寿永の乱から幕府創建後の争乱に及び、東国武士の思想的根幹を捉えている。後鳥羽院の宣旨が出ても、諸士が京に集まるには時間がかかることは、承知していた。それよりも時の勢いに乗り武士が集積する事、治承・寿永での宇治川の合戦、平家の滅亡等の教訓を知っており、そして、東国武士の恩賞に対する変わり身の早さという本質を知り、即刻の上洛を提言した。また、大江広元は嫡子親広後鳥羽院に与したため、この評議においては、強硬な発言力を示すことが出来なかったと考えられ、三善康信の発言が諸士に伝えられた。
ここでも、北条政子の三善康信を病床に伏していながら評議に参画させ、意見を述べさせたところに政子の政治的手腕に長けていた事が窺い取れ、また北条義時の優柔不断な面も窺い取れる。そして「日数が経過したのはまことに怠慢と言うべきです」と語った三善康信は、生涯を注いだ武士政権の鎌倉幕府という夢を全うし、この承久の乱の二か月半後の承久三年(1221)八月九日に老衰のため没した。
(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像 大江広元像)
『承久記』古活字本では、大江広元、三善義信の提言の記載は無く、二十日の日に権大夫義時の下に大名、小名集まり、軍の僉議評定が行われた。武蔵守泰時が「これ程の御大事、無勢にてはどうしようもない。両三日も引き伸ばし、片田舎の若侍でも集めて上洛しては」と申す。義時はこれに大いに怒り、「一天万乗の天皇に敵対するという大それたことを仕出かすからには、軍勢が多い少ないは問題ではない。ただ果報に任せるより手段はない。兵が集まるまで待つなど論外である」。あれこれ言う事も出来ず、各々の宿所に帰り終夜用意して、同二十二日に鎌倉を発つ。「慈光寺本」においても大江広元、三善義信の提言の記載は無く、義時の軍僉議において軍兵の上洛を決定している。軍記物語において本来武士が決断すべきことを文官の提言により進められたことは、武士の恥辱であり、歴史書として扱われる『吾妻鏡』のみの記載であると言えよう。私見であるが軍戦記物語の『承久記』では、その恥辱とされる進言を消筆させたと考えている。また、古来朝敵の汚名を着せられ、勝者となった者はおらず、武士にとっては天皇・朝廷の権威の恐怖が付きまとっていた。これらの『吾妻鏡』文官の大江広元、三善義信の進言がなければ軍兵の上洛はあり得なかったと考える。そして『承久記』では、北条義時が主戦論者であり、泰時が慎重論者に描いている点に興味深い。
『吾妻鏡』翌二十二日条、「小雨の降る中、卯の刻に武州(泰時)僅か従う者、十八騎で京に向かって出陣した。(泰時の)子息・武蔵太郎時氏、弟陸奥六郎有時、また五郎実義(後実泰)、尾藤左近将監景綱(平出弥三郎、錦貫次郎三郎が従う)、関判官代(実忠)、平三郎兵衛尉(盛綱)、南条七朗(時員)、安藤藤内左衛門尉、伊具太郎(盛重)、岡村次郎兵衛尉、佐久満太郎家盛、葛山小次郎広重、勅使河原小三郎則直、横溝五郎資重、安藤左近将監、塩河中務丞・内島三郎忠俊である。京兆(北条泰時)はこの者たちを呼び皆に兵具を与えた。その後、相州(北条時房)、前武州(足利義氏)、駿河前司(三浦義村)・同次郎(泰村)以下が出発し、式部丞(北条朝時)は北陸道の大将軍として出発したという」。
『増鏡』には泰時が出陣後、鎌倉に引き返し、院が兵を率いられた場合の対処を義時に尋ねており、義時は、「君の輿には弓は引けぬ、直ちに鎧を脱いで弓の弦を切って降伏せよ、都から兵だけ送ってくるならば力の限り戦え」と命じている。これが事実かは不明であるが、博打的な要素を持った決断である。しかし、慣例において天皇・上皇は戦場には赴かず、後鳥羽院が兵力を増強する前に上洛すると言う必勝を期すために適切な判断であった。事実であれば、これ等も覚阿(大江広元)、入道善信(三善康信)の判断だと考えられ、文官の情報収集と分析能力、経験的判断、そして東国武士の恩賞にこだわる群集心理を見抜いていた策であった。 『吾妻鏡』の承久の乱で幕府軍上洛の僉議においては、北条泰時の意見の記載はない。北条義時は、迎撃論者として窺い取れるが、『承久記』では義時が出撃論者になり、泰時は迎撃論者とも言い難く慎重論者であったことが記載により読み取れる。承久三年(1221)には、義時は五十九歳、嫡子・泰時は寿永二年(1183)の生まれで三十九歳であり、侍所別当として幕府の重責を担っていた。この承久の乱における主戦論者は、北条義時・泰時ではなく、大江広元・三善康信を率いた北条政子であったとも考えられよう。 ―続く―