勢田・宇治の戦は、『吾妻鏡』、『承久記』において格段の兵数の優位でありながら幕府軍は劣勢を強いられる。官軍はこの地においての勝敗により、上洛の可否を背負った事で、激戦が繰り広げられた。
『吾妻鏡』承久三年(1221)六月十三日条、「雨が降る中、北条時房以下は野路よりそれぞれの道に分かれた。時房が勢田に向かったところ、官軍は勢田の唐橋の中央の二間の板を曳き落とし、楯を並べ鏃(やじり)を揃え、官軍と比叡山の悪僧が並び立って東国武士に戦いを仕掛けた。そこで勝負を争ったという。酉の刻(午前六時頃)に毛利入道(西阿、季光)・駿河前司(三浦義村)は淀・手上(たのかみ)などに向かい、武州(北条泰時)は栗駒山(京都府宇治市東南の丘陵)に陣を構えた。武蔵前司(足利)義氏・駿河次郎(三浦)泰村は、泰時に伝えることなく宇治橋辺りに向かい合戦を始めた。官軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに当たり、(退いて)平等院に立て籠もった。夜半になって前武州(義氏)は室伏六郎保信を泰時の陣に送り、伝えていった。「明け方を待って合戦を行おうと考えていたところ、勇士らが先陣を進むあまりに既に矢戦(やいくさ)を始め、殺害されたものが多くおります」。泰時は驚いたものの、激しい雨を凌いで宇治へ向かう。この間にも合戦が行われ東国武士二十四人が、負傷し、官軍は頻(しきり)りに勝った勢いに乗じた。泰時は甲斐国山梨郡室伏を本拠とする尾藤左近将監景綱を遣わし橋上での戦を制止させ、それぞれ退却させた。泰時は平等院で休息したという」。
(写真:ウィキペディアより引用 承久記絵巻)
『承久記』「古活字本」によると、承久三年(1221)六月十三日、北条時房が勢田の橋近くの野路(滋賀県草津市野路町)に陣を取る。官軍は橋の中ほどの板二間を引き落とし、楯を並べ、鏃をそろえていた山田重忠と比叡山の悪僧、播磨竪者(りっしゃ:僧の肩書を持つ者)等三千余騎の官軍が待ち構え、雨で河は濁流と化していた。鎌倉方武士たちが橋を渡ろうと押し寄せると京方は一斉に矢を射かけ、播磨竪者ら悪僧は徒立ち(かちだち)に長け大太刀・長刀を自在に操り、鎌倉武士が橋桁に上ってくると切り倒し川に落とす。今までにない苦戦を強いられた事が記されている。
宇都宮頼業は橋上での戦を避け、一町余(約百メートル)川上辺りに陣を敷き、遠矢を放ち戦っていたが、京方の「信濃住人、福地十郎俊成」の十三束三伏(じゅうさんたばみつふせ:自身の拳十二個分に三本の指の長さを加えた弓の長さ)大矢が冑の鉢に射立。頼業も負けじと自身の名を記した十三束二伏の大矢を渾身の力を込めて引き放った。矢は、対岸の三百町(約三百三十メートル)余り先で指揮をしていた山田重忠の側に突き刺さり、急ぎ退いたとされる。また、三穂崎(水尾崎)から船で現れた美濃竪者観厳らにも矢を放ち法師武者二人を倒し観厳も引き退く他なかったという。しかし矢が尽き、兵が討たれるのを避けるために攻撃が一時停止する命を発するが、橋上で戦う武士には聞こえず、大声を発する伝達の武士の声により橋上の戦も停止された。勢田の合戦においても激戦であったと言う。
北条泰時率いる軍勢は宇治に達したが、宇治川は、昨日の豪雨で増水していた。『承久記』古活字本では、北条泰時は宇治の岩橋に陣を張り、足利義氏・三浦義村は栗籠山(くりこやま:山城国久世郡)に陣を取ったとされ、ここで三浦泰村を義氏の軍勢に就かせている。そして泰村が義氏に先陣を超されないように先駆け、合戦を初めてしまった事が記されている。
『承久記』は、保元・平治・平家に続く「四部の合戦書」の最後の軍記物語であり、異本も多く、最も古いものとして「慈光寺本」が鎌倉期中期に成立したと考えられる。承久の乱は、『吾妻鏡』より面白く詳細に記されているが、軍記物語として事実を拡大的に誇張して記載される面もあり、他の資料と比較し、読み取る上で注意が必要だ。
『吾妻鏡』同年」六月十四日条、「晴れ。雷鳴が数回あった。北条泰時は渡河による攻撃でない限り官軍を破る事は出来ないと考え、芝田兼義を呼び、河の浅瀬を調べるよう指示した。義兼は南条時員を伴い真木島に急行した。宇治川は昨日の雨で緑水の流れは濁って白波があふれ落ち、淵の底を窺う事は出来なかったが、義兼は泳ぎが達者であったというのでとうとうその浅瀬を知ると、しばらくして兼義が急ぎ帰り、泰時に申した。
「渡る事は問題ありません」。
卯の三刻(午前四時過ぎ)芝田兼義・春日刑部三郎貞幸らは泰時の命を受け、宇治川を渡るために伏見津(京都市伏見区、宇治川が巨椋池に流れ込む交通の要所)に急行した。春日部貞幸、佐々木信綱、中山重継、安東忠家等は義兼の後に従い川俣に沿って下って行き、信綱・貞幸が言った。
「ここが浅瀬か。ここが浅瀬か」。
兼義はとうとう返答もせずに、数町経た後に鞭を揚げて渡り、信綱・重継・貞幸・忠家も同じく渡った。官軍はこれを見て同時に矢を放ち、義兼・貞幸の乗った馬が河の中でそれぞれの馬にあたり、水に漂った。貞幸は水底に沈み危うく死ぬところであったが、心中で諏訪明神を祈り、脇刀をとって鎧の上帯と小具足を切ると、しばらくしてやっと浅瀬に浮かび出て、泳ぎの達者な郎従らによって救われた。泰時は、これを見て自分の手で数箇所に灸を加えたので貞幸は意識を取り戻したが、貞幸に従っていた子息・郎従以下十七人は溺れた。その後、兵士が多く水面に轡(くつわ)を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうち二十人中二・三人が死んだ。関政綱、幸島行時、伊佐大進太郎、三善康知、長沼四郎、安保実光以下渡河従軍した八百人中九十六人が亡くなった。
佐々木信綱は中島の古柳の陰にいたが、後を進む勇士が水に入って渡ろうとしたので分別をなくし、子息・重綱を泰時の陣に遣わし、重綱は泰時に申した。
「軍勢を賜って対岸に渡ります」。
泰時は勇士を援軍に出すよう指示し、食事を重綱に与えた。重綱はこれを賜り、父の所に帰った。信綱は卯の刻にこの中島に着いたが、援軍を待つうちに、重綱は甲冑を身に着けず、馬にも乗らず裸で帷子(かたびら)だけを頭にまとい往復する間に時が経過したため、日の出の時となった。泰時は子息・太郎時氏を招いて言った。
「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」。と言うと時氏は、佐久間家盛・南条時員以下六騎を率い進み渡った。泰時が言葉を発することなく前後を見ていると、三浦泰村主従五騎もまた川を渡ろうとしていた。官軍は東国武士が水に入るのを見て、勝ちに乗じる気配があり、泰時も馬を進めて河を渡ろうとしたが、春日刑部貞幸は、泰時の乗る馬の轡(くつわ)を取っていた貞幸が、押し止めることが出来ず、思いを巡らし申した。
「甲冑を着て渡る者は、多くが水に沈み死に申す、速やかに御鎧を脱がれますように」
その言葉を聞いた泰時が、田に下りて立って鎧を脱いでいたところ、貞幸が泰時の馬を隠したので泰時は心ならずも留まった」。乱後、貞幸の功名は先陣にも優ると鎌倉で評価されたと言う。
(写真:ウィキペディアより引用 北条泰時像)
佐々木信綱が先陣していたものの、中島で子息・重綱を待っていたため岸に着いたのは北条時氏と同時であり、信綱は太刀を取って川底に流されている大綱を取り除くため太刀で切り捨てた。芝田兼義も馬に矢が当たり倒れたが泳ぎが達者であるため無事に対岸に着くことが出来た。強引な敵前渡河で多数の溺死者を出しながらも成功し、敵陣を突破しる。北条時氏は旗を高く掲げて矢を放ち、東国武士と官軍は挑みあい勝敗を争った。東国武士は既に九十八人が負傷したと言う。『百錬抄』六月十三日条は「勇散の輩(ともがら)身命を棄て牧島に渡り、兵糧を奪い取り、勝ちに乗ず」と記され、両軍の激戦の末に兵糧をうばう。兵糧の奮守が、合戦の士気と勝敗を左右する事であった。
北条泰時・足利義氏等は、尾藤景綱が命じて平出弥三郎に民家を取り壊した筏(いかだ)に乗り川を渡った。泰時が岸に付いた後は、武蔵・相模の者が特に攻めて戦い、官軍の大将の源有雅・藤原範茂・安達親長等は防戦する術もなく逃げ去った。官軍の八田知尚、佐々木惟綱、小野成時らは、藤原朝俊を大将軍として宇治川辺りに留まり奮戦したのが、この戦いですべて命を失っている。官軍は弓矢を忘れ敗走し、北条時氏はその後も追って官軍を討ち取り、宇治川の北辺りの民家に隠れた兵に対し、火を放った。自ら逃げ籠った者は、煙にむせび慌てふためいたという。
北条時房の勢田での戦も優勢となり、夜には官軍の大江親広、藤原秀康、小野盛綱、三浦胤義らが陣を放棄し京に戻った。『承久記』においても北条泰時の苦戦が記されているが、『吾妻鏡』の子息・時氏に「わが軍は敗北しようとしている。今となっては大将軍が死ぬべき時である。お前は速やかに河を渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」との記述はない。また両書において、泰時の戦の策略の記述が乏しく、後においての武人としての評価が低い事が、窺うことが出来る。 ―続く