鎌倉散策 北条泰時伝 二十二、摂関将軍 三寅下向 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』承久元(1219)年三月十五日条には、北条時房が二位家(政子)の使者として上洛した。付き従う侍は千騎。これはこの度の藤原忠綱を通して命じられた条々についての回答と、将軍の御下向についてである。同月二十八日に六条宮(雅成親王)か冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを関東の将軍として下向の依頼を申すために先月の十三日に上洛していた信濃前司二階堂行光が、時房が上洛したため鎌倉に帰着した。北条時房の千騎を付き従えた上洛は、親王東下を渋る後鳥羽院に対して、幕府の軍事的威圧、及び権勢行為であったと窺い取れる。

 この年、建保七年(1219)四月十二日に改元され承久元年とされた。『吾妻鏡』は、建保七年四月から七月まで欠落しており、承久元年七月十九日から記載が行われている。この間の記事は、『愚管抄』に頼らざるを得ない。『吾妻鏡』の去る建保六年二月に北条政子が熊野山に参詣し、京にも立ち寄っている。朝廷との接触の記載は残されるが、新皇将軍の要請の記事は無い。慈円は、この時期在命しており、史論書としての『愚管抄』は、後鳥羽院への公武協調の道理を諫言したともされ、この時期の記述に対し信憑性が高い。

 

 『愚管抄』頼経東下において、こうするうちに、尼二位(北条政子)が使いを上京させてきた。その使いは(二階堂)行光と言って年来幕府の政所の事務を処理し、大変優れた者とされ使われてきたのである。行光は、成功(じょうごう:官人が私財を朝廷に献じて巻に任ぜられる事、売官の一種)によって信濃守となった者であり、二品(北条政子)の熊野詣の時も、事務の処理をするために上京した。この行光を上京させて、「後鳥羽上皇の御子の中で然るべきと思いになるような御方を鎌倉に御下向させられまして、それを将軍になさっていただきとうございます。将軍の背後についております武士は、今は住み着きまして数百になっておりますが、主人実朝を失いましたのできっと様々な心も出て参る事でございましょう。御子御下向によってこそ関東も静まることと存じます」と申し上げたのである。この事は、さきに熊野詣のために上京した時にも、その時は実朝も生きていたが、子ももうけないので、後鳥羽上皇の御子を関東に迎えるべきであるなどと、卿二位(藤原兼子)が二位尼(政子)に語ったと伝えられているその名残であろうか。今回もこのように申し上げたのであった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像、慈円像)

 (坊門)信清大臣の娘に後鳥羽上皇にお仕えになっていた西の御方という人があり、卿二位はその御方を養女としていたが、西の御方は後鳥羽上皇の御子(頼仁親王)をお産み申し上げた。その御子はスグル御前と名づけられ、卿二位が御養育に当たった。はじめは三井寺へお入れにして法師にしようとなさったが、やはり御元服の事があって、親王にもおなりになったので卿二位もお世話して、即位させたいものとの心も深く、もし即位がだめなら将軍にでもなどと卿二位が思ったのであろうか。世の人は卿二位を疎(うと)ましく思って、こんな想像もするのである。どうして本当の心のある人はそんなことを考えようか。皇位の争いだけでは昔からある事であるが、今はそんな心のあろうはずがない。後鳥羽上皇の順徳天皇(守成親王)に対する御心持を見ていれば、そんなことは考えられないであろう。さて、この御子を将軍に所望すると言う事を後鳥羽上皇がお聞きになり、「どうして先々この日本国を二つに分けるようなことになるようなことを前もってしておいたりできようか。何事であるか」とあるまじきことにお思いになり、「そんな事は出来ない」と仰せになった。その御返事に「将軍にと望むのが人臣の家柄の人であれば、関白摂政の子などであっても申し出に従うであろう」などという、直々の御言葉があった。

 

 この御言葉を手掛かりとし、また他でもない三浦義村の思いつきで、「このうえは、他に何がありましょうか。左大臣殿(九条道家)の御子三位少将(教実)を上京してお迎えしてきましょう」と言った。この考えに従って重ねて申し出たのは、「左府(道家)の子息は頼朝の妹の孫が生んだ子ですから血のつながりもあります。皇子をお迎えする事がかなえられないのであれば、左府の子息を下してもらい、育て上げて将軍とし、君の御守りと模すべきでありましょう。」という意見であった。その後さまざまな事などがあって、後鳥羽上皇は先に御使いとして下向させたことがあるので、また忠綱を御使いとして下されたのである。けれども「結局は元からひたすら申し出ておられる、左府の若君で結構ですが、左府の御御子息は数多くいらっしゃるのでどなたでも」と結論を伝えたので、「それならば本当によかろう」と言って、二歳になる若君(頼経)が祖父・西園寺公経大納言が養育されており正月寅の月の寅の年(1218)寅の刻(午前四時頃)に生まれて、本当に普通の幼い子とは違ったところがあり、占いによっても星の巡り合わせから言ってもめでたく叶っているという訳で、その若君が関東に下されることになった。そしてついに六月二十五日、迎えに上がった武士どもと共に関東へ向かって京を出発したのである。京を出てから鎌倉へ下りつくまで、少しも泣く声が無くてすんだというので不思議な事だといわれた

 

 幕府は皇族の親王将軍を諦めて摂家将軍九条道家と西園寺公経の娘・掄子との間の子・三寅(後の九条頼経)を迎えた。源頼朝の同母妹の坊門姫が一条能保の正室で、二人の間に娘の全子が生まれる。全子は西園寺公経の室となり倫子が生まれ九条道家の正室となり、教実、良実、実経、三寅(みとら:頼経)を産んだため頼朝とは遠いが、血縁上つながっている。『愚管抄』を見ると、この血縁の繋がりに三浦義村が気づき、話が勧められたようだ。当初は、九条道家の長子で九歳の教実を要望したようだが、寅の年、正月寅の月、寅の刻に生まれの貴種としての理由と、また二歳と幼少であり、九歳になる教実よりも、傀儡将軍として適材であった。三寅が関東に下されることになった。鎌倉幕府は、三代将軍源実朝の死という窮地を御家人達には源頼朝との血縁関係があることを示しつつ、幼少であるために、北条政子が自ら後見となり、また育てる。そして執権・北条義時を中心とした幕府政務を執る北条執権体制をより強固に整えることになった。北条氏は鎌倉幕府内での従来の地位を守り、さらに強化できる得策であったと考える。しかし後鳥羽院の朝廷と北条氏の鎌倉幕府の間では、より大きなしこりが残る選択であった。しかし後鳥羽院にとっては、幕府にしてやられたという思いがあったことは否めない。朝廷の権威を誇る後鳥羽院は、実朝の暗殺により混乱が続く鎌倉幕府の軍事・警察権を掌握するため幕府を執る北条義時に矛先を向け、強硬な手段にでる。しかし、幕府は、摂関家将軍を擁立できたことで、一歩先を進んでいた。そして後鳥羽院は、幕府においての北条政子の存在を見失っていたと言えよう。 

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像 藤原頼経造)

 『吾妻鏡』承久元年(1219)七月十九日条、左大臣(藤原道家)の賢息(三寅、後の頼経)が関東に下向した。これは故前右大将(源頼朝)の妻室の禅尼(政子)が、将軍(頼朝)との昔からの縁を重んじて、その後継とするために申請していたため、先月三日に下向するよう宣下があった。同九日には春日大社に参られた。牛車に乗り、殿上人一人・諸大夫三人・侍十人が供をしたという。同十四日左府(藤原道家)の下で魚味(まな)の祝いの儀式があり、同十七日には院(後鳥羽)に参って御馬・御剣などを給わったという。同二十五日に一条の邸宅から六波羅に渡り、その後出発したという。今日の午の刻、(鎌倉に入り右京権大夫(北条)義時朝臣の大倉の邸宅に到着した。その行列は、まず女房、雑仕一人、乳母二人、卿局・右衛門督局・一条局。このほかに相州(北条時房)の妻室。先陣の随兵等三十名、後陣の兵十六名、後塵に北条時房の名が連ねられ、北条泰時の異母弟である陸奥次郎(朝時)・陸奥三郎(重時)の名が記されている。 ―続く―