承久元年(1219)六月三日に三寅(二歳、後の源経頼)は京を出発し、七月十九日に鎌倉に到着した。政所始めが行われ、三寅は幼いため二品禅尼(北条政子)が理非を簾中で裁断するという新たな鎌倉幕府北条執権体制が整った。しかし、京の後鳥羽院の焦りと苦悩が表面化していく事になる。
同二十五日条、「京から伊賀左衛門尉光季の使者が鎌倉に到着し申した。「去る十三日、内裏守護、馬権守・源頼茂(摂津源氏、三位源頼政の孫)を誅殺し、子息の下野守頼氏を捕らえました。たまたま若君(三寅)が下向されたので、ことさら飛脚を出さずに今まで事情を申しませんでした」。頼茂が後鳥羽院のお考えに背いた事で、官軍を頼茂の住む昭陽舎(梨壺とも:平安宮内裏内郭後宮五舎の一つ)に遣わして合戦があった。頼茂とその一味の右近将監藤原近仲・右兵衛尉源貯・前刑部省平頼国等は仁寿殿(平安京内裏内郭の中心部にある殿舎。紫宸殿の北、承香殿の南)に籠って自殺した。内裏の区画内の殿舎以下に火を放ったので、仁寿殿の観音像や応神天皇の御輿、それに大嘗会や御即位の際の蔵人方に伝わる代々の御装束・霊物などが全て焼失した。朔平門、神祇官、太政官、外記庁、陰陽寮、園・韓神社などは被災を免れたという」。
『吾妻鏡』には「院のお考えに背いた」とあるが、その内容は記載されていない。『愚管抄』第六巻に「この年七月十三日の子と源頼政の孫で内裏に仕えていた頼茂という者が突如として謀叛を起こし、自分が将軍になろうと思ったと言う事が露見した。後鳥羽上皇は在京の武士等をお集めになり、頼茂を院に呼びつけられた。しかし、頼茂が参上しなかった為に大内裏を取り囲んで攻めたところ、頼茂が内裏に火をかけたので大内裏は焼けてしまったのである。左衛門慰盛時が頼茂の首を獲って後鳥羽上皇に差し出した。頼茂が説得して仲間に入れようとした伊予国の河野という武士が斯く斯くと陰謀の内容を話したと言う事である」。
『承久記』流布本においては、「都には又、源頼政の孫、左馬権頭頼持(茂)とて大内裏守護に御使い申し上げていた。これもただ満仲の末裔であるため、一院より西面の輩を差し遣わして攻めたてば、これも逃れ難しととて、腹掻切ってぞ失せにける。院の関東を亡(ほろぼ)さんとする思い召せる事は眼前なり。故大臣殿(源実朝)の官位、除目ごとに望みに過(す)ぎてな去りけり。これは、官打ちにせん為とぞ。三條白川の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と名付けらる。されば大臣殿、程無く打たれ給しかば、白川の恐れもありとて急ぎ壊されにけれり。」と、阿野冠者時元〔源頼朝の異腹弟の法橋(阿野)全成の子〕の誅殺の記事の次に記載されている。
『愚管抄』『流布本保暦間記』では、頼茂が将軍に就くことを図ったが、三寅が将軍としての東下したために望みを絶たれた為としている。頼茂は、鎌倉幕府在京御家人であり、京方の討幕計画を察知したためではないかとする説もある。また将軍継承問題は、幕府内の問題のため、西面武士を動かすことに疑問が残り、本来ならば、京都守護が行う事である。また『愚管抄』には、頼茂と藤原忠綱の間には怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍に画策したため頼茂が誅殺され、忠綱は翌八月に解官・所領没収となったと記している。九条基家は、故後京極殿(良経)の子で、母を松殿基房の娘あり、故後京極殿の北政所であった寿子を母とする内大臣基家(九条道家の異母弟)である。後鳥羽上皇が猶子として呼び寄せられ、忠綱に養育させていた。
『愚管抄』では、「後鳥羽上皇は八月頃、御病気にかかられた折に、「よくよく静かにものを考えてみると、この忠綱という男をこんな風に殿上人内蔵頭にまでとりたてた過失は、どう考えても見ても取るところに無い問題であったとよくわかったのである」と言われ、すぐに忠綱を解任して上皇が管理しておられた国のうち、忠綱が関係した物を全て取り上げておしまいになった。少しでも心ある人は大変殊勝の事だと思ったからであろうか、上皇の御病気は無事に治ってしまわれた。この忠綱は関東への御使いとして下った時にも、色々の悪事や奇策をなしたと言う事である。…故後京極殿の内大臣基家を後鳥羽上皇が養子にしようと呼び寄せられ、忠綱に育てさせていた。忠綱はその若君(基家)が成長していたので将軍として下そうなどと準備し、虚偽の事ばかりを京都と鎌倉で言ったとも伝えられている。また頼茂と特に親密に語り合って、人から怪しまれたこともあっが、頼茂の後見役であった法師が捕らえられ色々な事を言ったなどと言われていることについては、忠綱が広く公表させずに、法師を関東へ下し遣わしたのであった。すべての悪事を積んだ忠綱が消えてしまった事は、不思議な後鳥羽上皇の御運、御判断の立派さによると心ある人はこうした事だけを目出度く思ったのであった。それなのに名を忠恒の斜面を申請した卿二位の事を人々はあざけり非難した」。『愚管抄』の著者・慈円は九条家の人間であり、自身の兄の孫にあたる三寅の将軍擁立は、公武協調路線の根幹を成す。身分の低い藤原忠綱を罵倒しながら、後鳥羽上皇を皮肉っている内容である。忠綱の赦免を願い出ているのが、卿二位兼子であった。卿二位が推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽上皇により拒絶されたため卿二位・忠綱の政敵である西園寺公経の外孫三寅が将軍候補となったために何らかの妨害を試みて発覚したのが頼茂謀叛の真相であったのではないかと考える説もある。承久の乱に至る公武対立の様相ではなく後鳥羽院制下の権力闘争と位置付ける説でもある。また、後鳥羽院が鎌倉幕府(義時)の調伏のため加持祈祷を行っていた事を頼茂が知った為、院に殺されたともされ、祈祷が行われたと言う最勝四天院が、その後すぐに取り壊されている。
「神器無き即位」を行った後鳥羽院は、劣等的な意識の中、屈辱感と自己嫌悪がその後の行動に反映したとされる。独善的な性格であったとされるが、武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は、西面の武士を新たにつくり、伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。その後鳥羽院の象徴とされる大内裏の焼失は、病床に伏せるほどの衝撃であったという。事実、八月半ばから一か月以上病床に伏している。後鳥羽は、内裏復興に向けて承久元年八月四日に臨時除目を行い、下北面の(北面の武士のうち六位の者)院近臣文武両面で後鳥羽に厚遇され支えてきた藤原秀康に、北陸道・山陽道の国務を担当させた。これは、内裏の再建に向けた人事とされている。そして、相次いで再建を促す除目を出して造内裏行事所を発足させ、膨大な費用がかかる国家的大事業に至った。承久二年(1220)には、造内裏役と言う一国平均役を荘園・公領に賦課させる勅事院事(ちょくじいんじ:勅院事)が下される。一国平均役は、一国単位で一律に課された臨時の租税・課役を荘園・公領に賦課する制度であった。しかし、国司・荘園領主・地頭を問わず各地で造内裏役への抵抗が起こり、後鳥羽院が内裏焼失の原因と考えた幕府も宣旨の命に従わなかった。源頼茂が将軍就任の謀叛は、後鳥羽院に背いた事で後鳥羽が西面武士、あるいは在京武士により頼茂を誅殺される。将軍就任の謀叛であるならば、幕府内の問題であり、兵を用い誅殺したのは後鳥羽院で、自身の不徳の致すところであった。これら後鳥羽院の頼茂への関与が、院にとって不都合な事があったためと推測されるのである。
『吾妻鏡』承久元年(1219)七月二十八日に北条泰時の異母弟重時は将軍御所に設けられた近習の侍の詰め所である小侍別当を始めて補任した。重時二十二歳であった。同母兄・朝時よりも早く幕政に参画し、承久二年には修理権亮に任官している。これも朝時よりも早い任官であった。かつて朝時は「女事」で将軍実朝の怒りを蒙り、父・義時に義絶され駿河に籠居しており、義時は重時を抜擢している。重時は同母兄の朝時よりも異腹兄の泰時をしたい、後に泰時の執権政治が始まると泰時の右腕となった。極楽寺流北条氏の祖であり、北条得宗家を支え、その家風は変わることはなかった。 ―続く―