鎌倉散策 北条泰時伝 二十一、親王擁立 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』建保七年(承久元年:1219)二月十五日条に「阿野冠者時元〔源頼朝の異腹弟の法橋(阿野)全成の子。母は北条時政の娘(阿波局)〕が去る十一日に多勢を率いて城郭を奥深い山に構え、宣旨を賜って東国を支配しようと企てたものです」。と、駿河からの飛脚が知らせた。同十九日、「禅定二位家(政子)の御命令により、右京兆(北条義時)が金窪行親以下御家人等を駿河に差し遣わされた。これは、阿野冠者時元を誅殺するためである。」と記されている。時元は父・全成が建仁三年(1203)に甥である二代将軍・源頼家により謀叛の嫌疑を受け誅殺された。阿波局の母が北条政子・義時と同一母であるため政子により連座を免れ、時元も父・全成の遺領である駿河国の国東部の阿野荘に隠棲する。実朝死後、清和源氏の嫡流の血筋を引く男子が複数在命であった。

 

 北条政子・義時を中心とした幕府執権体制下で、源氏の血を引く彼らが後鳥羽院の宣旨を賜り将軍を名乗る事を恐れた。幕府での北条氏の執権体制が揺らぐことが無いように親王将軍擁立を要請し、源氏の血統を粛清していったと考えられる。しかし源氏の血を引く彼らは、同月二十二日条に「派遣された勇士が駿河国安野郡に到着し、安野次郎・同三郎入道を攻めたところ防御側が劣勢となり(阿野)時元と一味はすべて敗北した」。同二十三日条に「酉の刻に駿河国の飛脚が(鎌倉)に到着し、阿野(時元)が自害したと申した」。『承久記』においては、金窪行親以下御家人等が奇襲を仕掛け、「身に誤る事なけれ共、陳ずるには及ばねば、散々に戦いて自害して失ぬ」と同様に自害したと記している。永井晋氏は『承久記』の「身に誤る事なけれ共、陳ずるには及ばねば」とは、冤罪を意味し、『吾妻鏡』では謀叛と表現しているが、粛清の討手が向けられた事を知って決起した可能性可能性を指摘している。この事は北条政子に取って実子の実朝が亡くなり、北条氏の今後を見据えると親王将軍の擁立が最適であると考え、源家の血統とは決別したことを示し、北条政子の命令で義時が差配して時元を誅殺した。時元の母である阿波局は、政子・義時の同母妹とされ、将軍実朝の乳母で実子の時元よりも実朝にすべてをかけて溺愛していた事が窺われる。時元の誅殺後の『吾妻鏡』には、子息・時元を弁護した記録もない。また、阿波の局の反応、連座についての記載も無く、阿波局に関する記載は、その後の嘉禄三年(1227)十一月四日条に亡くなり北条泰時が伯母に当たると言うことで三十日の喪に服したとある。時元は、幸の薄い子であった。将軍実朝の死により鎌倉は揺れ動いた。そして幕府は源氏の血を引く者の粛清を行い、次期将軍を親王将軍へと動いたのである。

 

 『吾妻鏡』建保七年閏二月十二日条、六条宮(雅成親王)が冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを関東の将軍として下向の依頼を申すために先月の十三日に上洛していた信濃前司二階堂行光の使者が鎌倉に到着した。「かの宮の御下向については、今月一日に後鳥羽院がお聞きになって仙洞でその審議があり「二人の内の一人を必ず下向させよう。ただし今すぐというわけには行かない。」と、同四日に命じられました。鎌倉に帰るのがよいでしょうか」。『吾妻鏡』の去る建保六年(1218)二月四日条に御台所北条政子が、実朝病気平癒の祈願で熊野詣の為に上洛しており、その日の記事には親王将軍の要請の記事はかかれていない。『愚管抄』では、その際に実朝の後継問題について記載されている。後鳥羽院の親王を将軍に据える親王将軍の話が北条正子の熊野詣で京に伺い後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面していた。「実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが、卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていた」と記述されている。唐突すぎる二人の宮のどちらかを関東の将軍として下向の依頼は、事前に約束されていなければできる事ではなく、『愚管抄』の記述が事実であった事が窺える。

同月十四日条に幕府は、かの宮の御下向については、すぐに実現するよう、気を見て後鳥羽院に奏聞せよと命じ、行光の使者を京に帰えらせた。

 

(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、大江広元像)

 同月二十八日条、京都守護の伊賀光季からの飛脚が鎌倉に着き申した。「去る二十日の戌の刻に頭中将(一条信能)の青侍が大番役の武士等と争いを起こし、同二十二日の夜にその武士等が信能の邸宅を襲撃する風聞があったので京での警護についていた伊賀光季が急行して制止を加えたため静まりました。しかし検非違使庁からの首謀者が呼び出されております」との事である。この事件の裏側で後鳥羽院の幕府への挑発が始まった。

 同月二十九日条に一条中将信能が二品(政子)の御邸宅に参って申した。

「右府(源、実朝)との昔からのご縁を忘れていないので、今まで(鎌倉)に祇候していましたが、(後鳥羽院が)たいそう不快に思われているうえに、去る十九日には官職を解くとのご決定があったと言います。ならば京都に帰るべきでしょうか」。

「よく考えずに京都に帰られてはいけません。」と、政子は返答されたと言う。

一条信能は、後鳥羽院近臣の参議で一条能保と源頼朝の妹とされる坊門姫との間の子息であり、去る健保六年六月二十日の実朝左近衛大将就任の拝賀から実朝暗殺後も鎌倉に留まっていた。西国の御家人を使い信能の若く官位の低い青侍に争いを起こさせたことが考えられ、後鳥羽院が近臣の信能に対する早く上洛する旨の手段であったとも考える。

後鳥羽院の幕府への必要以上の挑発が繰り返された事が窺い見ることが出来る。そして、後鳥羽院と幕府との関係は、さらに不信による悪化を募らせることになった。信能は後に京に戻り、後鳥羽院の近臣として復職しているが、承久の乱においては、官軍側に与し、異母兄・尊重と共に芋洗いの攻防で幕府軍と戦うが敗れ、京にて捕縛され、鎌倉に護送中の美濃国遠山荘で斬首されている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像、北条義時像)

 親王将軍に対して『愚管抄』「頼経東下」では、後鳥羽院が、この御子を将軍に所望すると言う事を後鳥羽上皇がお聞きになり「どうして先々この日本国を二つに分けることになるようなことを前もってしておいたりできようか。何事であるか」と、あるまじきことにお思いになり、「そんなことはできない」と仰せになった。と記された。またその御返事に「将軍にと望むものが人臣の家柄の人であるならば、関白摂政の子などであっても申し出に従うであろう」等と言う、直々のお言葉があったと記されている。後鳥羽の正論であった。

そして後鳥羽院は、健保七年三月九日、(藤原)忠綱朝臣が上皇の使者として鎌倉に下向させ、禅定二品(北条政子)の邸宅に参上して実朝が亡くなった後鳥羽院の弔意を告げた。特に後鳥羽院が嘆かれていると仰せを下されたためである。その後、北条義時邸に参り、義時と対面し、院宣の条々を伝えた。その内容は、院の愛妾亀菊の所領である摂津の長江(大阪府豊中市豊南町付近)・倉橋(稲川に対岸する兵庫県尼崎付近)の地頭職の撤廃と御家人である西面武士で御家人の仁科盛遠の処分の取り消しを条件とした院宣」を伝えた。仁科盛遠は、信濃国安曇野群仁科荘本拠する桓武平氏平繁盛の末裔であり、幕府御家人であったが、熊野参詣の折、後鳥羽上皇の知遇を得てその縁により西面武士として仕える。信濃守護を兼ねていた幕府執権の北条義時に無断で仕えたため盛遠は所領を没収されていた。

 

 『吾妻鏡』では三日後の十二日右京兆(北条義時)・相州(北条時房)・駿河(北条泰時)・全体全体夫入道(覚阿:大江広元)が政子の御邸宅に集まった。「(藤原)忠綱朝臣を通して命じられた条々は「追って(回答を)申し上げます。」と(後鳥羽に)ご返事を申されたので、速やかに決定しなければ、きっと(後鳥羽の)お考えに背くであろう。」と審議があったという。北条泰時はこの年の正月二十二日に駿河の守に任じられていた。

北条義時は、地頭の解任権は幕府に在るため、院の「院宣」による対応は、御家人の不信を買い、幕府の根幹を揺るがす事であるため拒絶を決めた。この決断は、義時の決断とされているが、実質は政子を中心とした執権義時を始め幕府の重臣の北条時房、大江広元、三善義信、二階堂行光、三浦義村、安達景盛、そして北条泰時等の提言によるものと思われる。同十五日、二位家(政子)の使者として北条時房が一千騎を伴い上洛させ、武力的背景により将軍下向を求めた。朝廷と幕府において、後継の新将軍の調整に難航する。 ―続く―