鎌倉散策 鎌倉歳時記 熱田神宮 四、天武天皇 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

  

(写真:ウィキペディアより引用 三種の神器/画像は想像図、『集古十種』より「天武帝御影」)

 天智天皇の時代、『日本書紀』(天智天皇七年是歳条)、「是の歳に、沙門(僧の意)道行、草薙剣を盗み新羅に逃げ向かう。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る」。法師道行(道慶)により盗み新羅に向かうが途中暴風雨に遭い迷い帰って来たとある。同書では道行の素性、その後の経緯も記されていない。

 『熱田神宮縁起』では、道行を新羅国の僧として熱田社から神剣を盗み本国に渡ろうとしたが、伊勢国において神剣は一人で抜け出して熱田社に還った。再び道行は盗み摂津国より出港したが難破し、道行は神剣を投げすてて逃げようとしたが、神剣は身から離れず自首して死罪に処されたと記されている。南北朝期の『新皇正統記』にも「昔、新羅国から道行(道慶)という法師がやって来て、宝剣を盗んだことがあるが神変(人智を超えた神威)を表して、我が国から出る事は無かった。」とあり、両書とも道行は新羅の僧として拡大解釈され、その後の経緯も創作された。

 

 熱田神宮の伝承によると、境内の奥まったところに清雪門があり、道鏡が草薙剣を盗み出して、この門を通ったとされる。二度と盗難に遭わないように門は閉ざされたままであるとの事。また大同二年(807)の成立になる『古語拾遺』では「外賊が草薙剣を盗み逃げたが境を出ることが出来なかった」と簡潔に事件の事に触れている。また『日本書紀』天智天皇(七年十月)に剣璽が一時宮中で保管され、『古語拾遺』にも同様に記載されている。『日本書紀』朱鳥元年六月戌寅条に「戌寅に、天皇の病を占ふに、草薙剣に祟られり、即日(その日)に、尾張国の熱田社に送り置く。」と、天武天皇の時代の朱鳥元年(686)、天武天皇が病に倒れ、占いにより草薙剣の祟りと判明。剣璽は再び熱田神宮に戻されたが、天皇は回復せず崩御している。『熱田大神宮縁起』二十一から二十二にも同様に記載される。

 

 熱田神宮では、日本武尊の東征後の神宮創建から現在まで、神宮の神体として祀られているとされる。しかし『日本書紀』の記述との矛盾点が残り、諸説が生じている。一説には草薙剣が盗難後およそ十八年の間、宮中に留め置かれた事は不自然であり、道行が盗み出した場所は熱田神宮ではなく宮中であったとし、朱鳥元年が初めて草薙剣が熱田神宮へ下賜されたとする説がある。『日本書紀』に盗み出した場所の明記がなく朱鳥元年の記事で熱田社に「還し置く」ではなく「送り置く」と記されていることが指摘される要因である。また、熱田神宮では草薙剣が創建当初から正殿(本殿)には置かれず別の社殿・土用殿に祀られていたため、草薙剣が創建後に賜ったとする説である。下賜の背景には壬申の乱における尾張氏の協力が考えられる。また熱田神宮では、毎年五月四日朱鳥元年の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える「酔笑人神事」が行われ、翌五日には「に野子を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を静め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する「神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行われている。

 

 別説には、草薙剣は盗難後に熱田社に返されたが、天武天皇即位のために一時宮中に遷されて、その後熱田神宮に返されたとする説もある。他の説には、本来熱田社宮に伝わる草薙剣を天武天皇に貢上(献上)させ、漢の斬蛇剣になぞらえて皇位継承の神器とした説もあり、その後天武天皇の病が草薙剣の祟りと占われ、熱田神宮から朝廷への貢上ではなく盗難説話にすり替わったとする説もある。別説以降は、どうも推測の域を脱しない。現在では草薙剣は、本体を熱田神宮、形代を宮中に置かれ皇位継承の儀により三種の神器も継承される。『古語拾遺』によると崇神天皇(第十代)の時代に鏡と剣が宮中から出て祀られることになり、形代が造られた。この形代の剣は神道で言う御魂遷しの儀式を経て神器との措置が取られている。上記の熱田神宮の草薙剣と天武天皇の記述により、形代による皇位継承を天武天皇の次代持統天皇の即位からと考えられる。 ―続く