鎌倉散策 鎌倉歳時記 熱田神宮 三、日本武尊 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『尾張風土記』逸分(八世紀ころ『釈日本記』〔鎌倉末期に編纂された『日本書紀』の注釈書〕七)、には、「卽(すなわち)宮簀媛に謂(の)りたまえひしく、此の劒は神の気あり。齋(いわい)ひ奉りて、わが身景と爲(せ)よ、とのりたまひき。因(よ)りて社を立て、郷(熱田郷)によりて名を爲(な)しき。」とある。伊勢の神宮から尾張の氷上邑(ひかみむら:現名古屋市緑区大高町火上山付近とされる)を経て熱田に移ることになり、尊が媛に草薙剣を手渡し御影とするように言い渡したとある。また『尾張国熱田大神宮縁起』にも同様に記されている。

  

(写真:ウィキペディアより引用 日本武尊像(大阪府堺市の大鳥大社))

 『尾張国熱田大神宮縁起』は貞観三年(878)に熱田社別当尾張清稲により記述され、関平二年(890)十月に国司であった藤原村椙(ふじわらむらすぎ)が筆削を加えたとされる。『記紀』『古語拾遺』『尾張風土記』等を基に引用し編纂されたとされ、独自性は少ない。成立は平安期とされるが、両者の人物像や記述に不確かな点や矛盾点があるため、鎌倉期とする説が有力視されている。この縁起に景行天皇四十年十月二日天皇の意を受け東征に出た皇子・日本武尊は伊勢神宮に立ち寄り、叔母にあたる倭姫命の命から嚢(ふくろ)と劒を賜り、その後に尾張国愛知郡に入ると侍従の将の建稲種命に誘われて命の故郷である氷上邑で休息をとった。尊は命の美しい妹・宮簀媛を招き、契りを交わし、長くこの地に逗留する。しかし景行天皇の命で東征に戻り媛との別れを惜しんだ。駿河国で賊の仕掛けた野火で窮地に落ちいった。燃える草を剣で祓い、窮地を脱した事から草薙剣と命名したとされる。東征を終えて再び氷上邑に戻った尊は宮簀姫と再会し、数種の歌をかわし媛との日々を過ごした。

 

(写真:ウィキペディアより引用 三種の神器/画像は想像図)

 その後『記紀』では、日本武尊が伊勢の神剣の草薙剣を宮簀媛に預け息吹山(岐阜・滋賀県境)の悪神を素手で討ち取ろうと出立する。近習の大番建日臣は懸念するが、尊は伊吹山に向かう。『尾張風土記逸分』には、宮簀姫の屋敷の桑の木に、日本武尊が剣を掛けたところ、剣が不思議に光り輝き手にすることが出来ずに、「剣を私の御影として祀るように」と残し、出立したとされる。『尾張熱田神宮縁起』では、桑の木に光り輝く剣を取ったが、「我が床の守りとせよ」と告げ出立した。

 

 息吹山で『古事記』には、牛ほどの大きな白い猪が現れ、尊は「この白い猪は神の使者だろう。今和殺さず、帰る時に殺せばよかろう」と言挙げ(神道による協議・解釈を「言挙げ」より明確にする)したが、その猪は神であった。神は大氷雨を降らせ尊は病に倒れる。尊は、弱った体で倭(やまと)を目指し、当芸・杖衡坂・尾津・三重村を進み能煩野(三重県亀山市)に至り尊は「倭は国のまほろば、たたなづく青垣 山隠れる 倭し麗し」から最後に「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀はや」に至る四首の国偲びの歌を詠んで亡くなった。

『日本書紀』では伊吹山の神の化身大蛇が道を塞ぎ、尊は「主神を殺すから、神の使い手を相手にする必要はない」と大蛇をまたいで進む。神は雲を興し、氷雨を降らせた。氷雨にさらされた尊は病になり尾津から能褒野へ至り、伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備彦を遣わし、「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが残念です」と奏上した。国偲びの歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中の日向で読んだ歌とされ、日本武尊の辞世とする古事記と印象は違うが、ほぼ同様の内容で記されている。

 

 日本武尊は、息吹山(岐阜・滋賀県境)で暴風雨にさらされ、病の身となり尾張に戻ろうとするが鈴鹿山を越えたあたりで危篤となった。媛の床にある太刀を偲ぶ辞世を残し鈴鹿川の中州で身まかった。『記紀』と些細な点が違うが、本筋の体形はほぼ同じであり、尊は白鳥と変わり『古事記』では伊勢を出て河内の国志幾に留まり、そこにも陵を作るがやがて天に翔り、行ってしまった。『日本書紀』は大和に飛来していることが異なる。その後の草薙剣は『尾張国熱田大神宮縁起』で、宮簀媛が尊との約束を違えず、一人床を守り草薙剣を奉ったと記され。その後、老いた媛は身近な人々を集め、草薙剣を鎮守するため社地の選定を諮った。ある楓の木があり、自ら炎を発し続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かったのでここを熱田と号し、社地を定めたという。そして姫は身まかり、居宅のあった氷上邑に祠が立てられ、氷上姉子天神として神霊が報じられた。これ等が草薙剣と熱田神宮の由緒である。この記述が、平安期に成立した(現状鎌倉期とされる)とする点が天照大神の神器が天の請け・伊勢神宮を経て熱田にもたらされたという熱田神宮の正統性を誇示する重要な点になっている。 ―続く