鎌倉散策 鎌倉歳時記 熱田神宮 二、素戔嗚尊 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 熱田神宮は、三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれる剣璽を祀る神社である。剣璽の名称を『日本書紀』に倣い草薙剣と記述させてもらう。草薙剣には諸説あるが、熱田神宮での御神祭として草薙神剣が祀られている。

 

(写真:ウィキペディアより引用三種の神器/画像は想像図)

 草薙剣の名称として『古事記』『日本書紀』の『記紀』の記載は異なり、『古事記』では「草薙剣」「俱娑那伎能都留伎」、『日本書紀』では、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治時に「草那藝之大刀」、天孫降臨・日本武尊時に「草那藝剣」と表記され、『記紀』に八岐大蛇を退治した時、八岐大蛇の尾から見つかった劒という。『日本書紀』(巻第一神代上第八段)「そさのをの尊すなはちはかせる十つかの劒をぬいてずたにその蛇をきる。尾にいたって、劒の刄すこしかけぬ。故、その尾をさいてみそなはすれば、中に一つの劒あり。これは草薙剣なり」。草薙剣を『日本書紀』では元の名を「天叢雲剣」と大蛇の上に雲がかかっていたと言うわれたため名付けされたと記される。『古事記』(上巻)には、「都牟刈の大刀(つむがりのたち)」と鋭利な大刀の美称として記されている。この八岐大蛇由来の神剣を高天原の天照に献上した。また素戔嗚尊が八岐大蛇を倒した剣、十拳剣は奈良天理市にある石上神社(石上布都魂神社)に祀られている。『日本書紀』(第三の書)では「蛇韓鋤(おろちのからさひ/おとりからさひ)の剣」として吉備の神部にまつられた。

 

 『記紀』の記述によると創祀景行天皇四十三年、熱田社の創建が仲哀天皇元年あるいは大化二年(646)と伝わる。古代は尾張国の地方大社として、中世以降は政治的・経済的に急速に台頭し、『熱田明神講式』では「日本第三之鎮守」(伊勢神宮、石清水八幡宮に継ぐ)、『熱田神宮略記』には「伊勢神宮に亞(つ)ぐ御由緒の尊位大社」と記され国家的崇拝を受けるに至った。主祭神は三種の神器の一つである草薙剣を神体とする天照大神を示す。相殿神天照大神、素戔嗚尊、日本武尊(やまとたける)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀られている。

 ​​​​『記紀』を『熱田神宮略記』では厳然たる「大御神の霊物」と記され、神威をふるうことになる。

『記紀』において高天原から出雲に至ったスサノオノミコトは櫛名田比売(クシナダヒメ:『日本書紀』、奇稻田姫『古事記』)を助けるため十拳剣(とつかのつるぎ)で、八岐大蛇(紀)、八俣大蛇/八俣遠呂智(記)倒し、尾を着ると十拳剣が懸け、尾の中から鋭い大刀が出てきた。『日本書紀』神代記上第八段本文に素戔嗚尊は「是神(あや)しき剣なり。吾何ぞ敢(あ)えて私に安(お)けらむや(これは不思議なれ剣だ。どうして自分のものに出来ようか)」。注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気がかかっていたため、かく名付けたか。日本武皇子に至りて、名を改め草薙剣と日ふといふ」とし、高天原の天照大神に献上した。平安時代の大同二年(807)に編纂された神道の資料『古語拾遺』では天神(あまつかみ)と表記している。

 

 天照の孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)が天孫降臨の神勅を下すにあたり、真剣に霊魂を込め神鏡(八咫鏡)、神璽(八尺瓊勾玉)を託し、天皇家はこれを宝祚の守護(三種の神器)として宮中に祀って来た。『記紀』において邇邇芸命の降臨から神武天皇まで草薙剣の記述はない。『日本書紀』巻第五崇神天皇六年条に、第十代崇神天皇の治世に至り天照大神の神威がますます盛んになり、百姓の流離や背叛等により国内情勢が不安定人ると「天照太神(あまてらすおほんかみ)、和大國魂(やまとのおおくにたま)、二はしらの神を、天皇(すへらみこと)の大殿(みあらか)の内に、ならべいはひまつる」。同殿共床にあるのは畏れ多いとして豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)神霊を斎き奉らしめ「御杖代」として理想的鎮座地を求めた。この時に草薙剣の形代が造られ、宮中に形代が残る。豊鋤入姫命は笠縫邑に天照大神を移し、皇居と神璽が離される。

 『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月十日条に天照大神は豊鍬入姫命から離され垂仁天皇の皇女・倭姫命に託された。その後『伊勢神宮起源譚』に、本来の剣は笠縫邑を経て「御杖代」を引き継いだ垂仁天皇の第四皇女・倭姫命の代に伊勢国五十鈴川湖畔の地に神宮(伊勢神宮)の創祀し、皇居と神宮の分離が初めてなされる。神道五部書のひとつ『倭姫命世紀』によると垂仁天皇の治世、倭姫命に引き継がれ豊鍬入姫命から合わせて六十年をかけて伊勢神宮内宮に祀られるようになった。『倭姫命世紀』は奈良時代に編纂されたとするが、実際は鎌倉時代に度会行忠等の外宮祀官が執筆した物とされる。

  

(写真:ウィキペディアより引用 日本武尊像(大阪府堺市の大鳥大社))

 『記紀』で、第十二代景行天皇の時代、天皇の息子・日本武尊(やまとたける)に東征に向かうよう命じた。伊勢国で伊勢神宮の伯母である倭姫命から草薙剣を授かる。『日本書紀』『古語拾遺』「慎んで怠る事無かれ」と訓戒を与え、『古事記』では草薙剣と火打石入りの袋を渡して「もし急なること有らばこの袋の口を解きたまえ」と詔る。その後『日本書紀』には記述がないが、『古事記』に日本武尊は尾張国造り家に入り宮簀媛(美夜受比売)と婚約し、東征のために東国へ赴く。

 『古事記』では相模国で、相模国造りの荒ぶる神に野中で火攻めに会う。伯母から貰った袋を開け、草薙剣で草を刈り掃い、袋の火打石で迎え火を付けて炎を退ける。日本武尊は国造りらを全て切り殺し、死体に火をつけて焼いた。そこを焼遺と言い焼津の地の起源とされる。『日本書紀』では、駿河で火攻めに遭い、焼津の起源も同じである。本文中には火打石で迎え火を付けるだけで草薙剣で草を掃う記述はない。注記に天叢雲剣が一人で草を薙ぎ払い、草薙剣と名付けたとし、火打石を伯母にもらった記述はない。その後日本武尊は上総に渡り東国を平定し、陸奥にまで至った。『常陸風土記』『陸奥風土記』逸文に残されている。東征を終えた日本武尊は、尾張国に戻り宮簀媛と再会した。 ―続く