鎌倉散策 鎌倉歳時記 熱田神宮 一、草薙剣 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 

 熱田神宮と大垣の旧東山道の地を訪ねるために先日の金曜日、土曜日と名古屋に出かけた。金曜日の夜に年賀状でのやり取りだけ続いていた幼稚園・小学校・大学が同じだった幼馴染の友人と三十七年ぶりに会う。六時半に名古屋コーチンの会席膳のお店で再会し、話も弾んだ。あっという間に時間が過ぎて店を出る。栄の錦の町の中、呼び込みが多く、健全なバーを探して落ち着いた店に入った。私が鎌倉で単身居住して中世の歴史を勉強している事など互いに近況を話した。また、学生時代の楽しかった話、互いに今までの経過の話や今後の老後についての話がほとんどであった。職は離れたいが、その後、やることも無く、年金生活者としてどのように暮らして行ったらいいのか不安だと言う。人はそれぞれ思うところがあるが、私は「経済的に問題がなければ、好きな事、したいことをして、マイペースでストレス無く過ごすのが一番」と。私が特別なのだろうと思うが。それぐらいしかいうことが出来ない。今の社会の老人の縮図と世情だろう。そして楽しい夜は過ごし、また会う約束をして別れた。

 

 中世の歴史を学ぶ中で、寺社の創建由来が大きな意味を持つことが多いい。熱田神宮に一度訪ねたいと思っていた。古来、熱田神宮の大宮司職は代々尾張国造りの子孫である尾張氏が務めていたが、平安期に尾張氏と国司との関係が悪化する。平安後期に国司の目代であった藤原南家・藤原季兼が尾張員職の娘・尾張職子を娶り国衙と尾張氏が和解した。代々尾張氏が大宮司職を務めていたが、永久二年(1114)に尾張員職の外孫で藤原季兼の子・季範に霊夢の託宣として大宮司職が譲られ、以降藤原南家藤原氏・千秋家が大宮司として、尾張氏は権宮司(大宮司を助ける宮司)を務めるようになった。藤原季範の娘は、源頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)の母・由良御前である。また季範の養女(実孫)は、足利氏の祖である足利義康の妻であり義兼を産み、足利氏もその血脈を繋いでいる。さらに季範の妹は二階堂行政の母であり、二階堂氏との関係も深い。鎌倉・室町期と武士の勢力の繁栄と共に栄、江戸期には最も発展した。

 

 尾張一宮は真清田神社(ますみだじんじゃ:一宮市真清田)で旧社格は国幣中社で、二宮は大懸神社(おおあがたじんじゃ:犬山市宮山)で旧社格は官幣中社、三宮は熱田神宮で旧社格では官幣大社である。神階・格式の点では熱田神宮が尾張最高位で矛盾する。これ等は、尾張国府との距離関係や東海道における京からの位置関係の反映とされる説が一般視されている。

熱田神宮の主祭神は、三種の神器の一つ草薙神剣を神体とする天照大神を指すとする。

相殿神に五神が祀られている。

天照大神(アマテラスオオミカミ)

素戔嗚尊(スサノオノミコト)

日本武尊(ヤマトタケル)

宮簀媛命(ミヤスヒメノミコト)

建稲種命(タケイナダネノミコト)

『延喜式』巻三神祇三(臨時祭)や巻九神名帖上に「熱田神社一座」と在り、古代には神剣の身が祀られていたと考えられる。この熱田神宮の主祭神である草薙剣、いわゆる三種の神器の一つ剣璽が平安末期の源平合戦の合戦で、壇ノ浦にて安徳天皇と共に海中に消えた。この剣に興味を持ち訪れてみた。 ―続く―