『平家物語』の寿永二年(1183)七月二十五日、木曽義仲が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に都落ちした。同年八月二十日に安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位する。そのため寿永二年(1183)から平家滅亡の文治元年(1185)までの二年間は両帝の在位期間が重複した。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、神器の剣璽だけは海中に沈み、ついに回収できなかった。その後宝剣の捜索が行われたが、文治三年(1187)九月二十七日に後白河法皇は、佐伯景弘から宝剣探索の失敗の報告を受けて捜索は終結した。建久元年(1190)一月三日に行われた天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま行われる。その後は、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として宝剣の代用とすることになる。建久九年(1198年)の土御門天皇への譲位もこの剣璽で行われた。承元四年(1210)の順徳天皇践祚に際しては、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととされ、その後はこの宝剣が剣璽とされる。
後鳥羽上皇の治世を批判する際に九条兼実・藤原定家・慈円党から神器無き即位と不徳が結び付けられた。また、現在においても神器無き即位が後鳥羽上皇に過度の劣等感を有したと考えられ、果たして剣璽・草薙剣は存在するのかと疑問を持つ。南北朝時代、北朝と南朝ともに剣璽を含む神璽(三種の神器)の正統制を争い、第百代天皇の後小松天皇における南北朝合一まで続いた。
建武の新政に離反した足利尊氏は延元元年/建武三年(1336)に光明天皇を擁立し室町幕府を開くが、後醍醐天皇は北朝に渡した神器は贋物であるとして自己の正統性を主張し、奈良吉野に南朝を開き南北朝時代が始まる。正平一統(しょうへいいっとう:南北朝期の正平年間(1346-70)に一時的に南北朝が合体した)の後に南朝が一時、京都を奪還し、三上皇を拉致した際に神器を接収した。その間に北朝の天皇となる後光厳天皇・御円融天皇・後小松天皇の三天皇の即位は、後鳥羽天皇の先例に倣い神器なしで即位している。
南朝の北畠親房の『新皇正統記』後鳥羽天皇の代には、後鳥羽天皇の践祚に対し、「安徳天皇が三種の神器を具して行かれたので、践祚(皇位継承の事で、三種の神器の受け継ぎ)の儀において初めて異例であったが、後白河法皇は我が国の本主として正統の位を伝えられた。また、皇大神宮と熱田神宮の神が明らかに御守りなさることなので、転移には何ら問題もない。」また「草薙の宝剣は海に沈んだと申し伝えられているようである。返す返すも、間違った説である。わが国の三種の神器の正体を以って眼目(大切な要点)として、また福田(福徳を生ずるもの)とする物だから、日月が点を正しく巡っている限り、一つも欠けるはずはないものである。天照神の勅に「宝祚(皇統)が栄えるであろうことは、天地が無躬である事であると同じである」とあるので、全く疑う余地がない。」と南朝の正統性を記し、天皇の条件として血統のほかに君徳や神器の重要性を強調して、幼少の南朝の後村上天皇に帝王学を示した。
元中元年/明徳三年(1392)に足利義満の斡旋により明徳の和が行われ南北合一が成された。南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引き渡しが行われている。また、室町期の嘉吉三年九月二十三日(1443)に起こった禁闕の変(きんけつのへん:後南朝の勢力が、後花園天皇の皇居内裏である禁闕への襲撃事件)の際に、宝剣の剣璽と八尺瓊勾玉の神璽(三種の神器の宝剣と玉(璽)を合わせた呼称を剣璽とも称され、玉を璽または神璽としょうされる)が共に奪われる。しかし翌朝、清水寺の僧が境内で発見され宝剣は宮中に戻された。新璽の勾玉は長禄二年(1485)に赤松氏の遺臣により奪還に成功し宮中に戻されている。神代・古代・中世と草薙剣派の変遷と経緯はこのようなものである。
第十代崇神天皇の治世に皇居と神宮の分離はされ、宝剣は神宮へと遷ったとされるが、壇ノ浦で海に沈んだ。宝剣が形代ならば、熱田神宮の剣璽により神道で言う御魂遷しの儀式を経て再び形代の剣を神器として取り扱う措置が取られても問題ないだろう。しかし、後白河法皇が執拗に捜索させ断念したのは何故だろう。剣璽とされる草薙剣は、実際に熱田神宮に送り置かれたのか。何故伊勢神宮から献上された剣を新たに剣璽として祀られたのか、謎が深まる。宗教という物は文化の陰に隠れ人の内に在り、それらの内面を支える。また宗教は国家の内に在り、その国家の中枢を支えるために神威と権威により正統性を誇示する重要な点になっている。
熱田神宮では、明治以前まで、草薙剣を祀るために正殿とは別に設けられたのが土用殿であった。現在は、三種の神器の内の剣璽である草薙剣は正殿で祀られており、皇居には形代としておかれ、二つが神器として存在している。三種の神器は「皇室所有とされること」に意味があると主張される事がある。「皇室が三種の神器を所有している」というより、「皇室所有のもの」こそが三種の神器としている。これは皇室の権威を最大限に見なして神器を単なる権威財としてみなすことになる。これでは神器が奪われても天皇が新たに神器を取得すれば済むことになる。歴史的に見るならば、実態があってこそその価値が問われるが御神体である以上それは不可能である。しかし、草薙剣という宝剣を宗教的な物でなく歴史的に見ることで、皇位継承を行う践祚により三種の神器の継承が行われ、宝剣の変遷に関わった歴史を知ることは非常に意義深いものである。 ―了―