源頼朝は、建久元年(1190)に頼朝は権大納言兼右近衛大将に任じられ公卿に家政機関である公文所(後の政所)開設の権を得て統治機構として合法性を帯びるようになった。そして建久三年(1192)七月十二日、征夷大将軍の宣下が下り名実とも武家政権として成立する事となる。しかし頼朝は、建久十年(1199)一月十三日に昨年十二月二十七日の相模川橋供養の帰りの落馬により、死去。享年五十三歳で時代の幕を閉じた。
鎌倉幕府は、頼朝の死後、嫡子である頼家が十八歳で家督を継いで二代将軍に就くが、『吾妻鏡』では、頼家の将軍としての批判的記述が示される。果たしてそうであったのかは疑問に思うところがある。将軍頼家の勅に訴訟を裁断する事を停止し、十三人の宿老の合議制を敷くが、それは頼朝死後の挙兵時からの主要御家人の既得特権の維持及び挙兵後に御家人とのなった者との差別化がとして考えられる。また、十三人の評定衆は二勢力の対比が描かれ、将軍外戚の北条氏と、頼家の乳母夫であり、娘が頼家側室の若狭局で頼家の子息一幡が生まれていた比企氏率いる秀郷流藤原氏等であった。頼家の発病と病状の悪化により、後の後継者争いが比企の乱として起こる。頼朝亡き後の権力闘争であるが、比企以外の坂東に居する藤原氏は北条に付き、比企氏は若狭局、一幡と共に滅んだ。奇跡的に病状を回復した頼家には、後見となっていた比企氏が北条に滅ぼされ、北条時政等に擁立する頼家の弟・実朝が将軍に就いた。実朝の治政においては、頼家以上に制約されてた。頼家は、伊豆修禅寺に幽閉され元久元年(1204)七月十八日に北条氏の手勢により殺害された。『愚管抄』『武家年代記』『増鏡』では、義時の送った刺客、また古活字本『承久記』や『梅松論』では、時政の送った刺客とされえている。
頼朝死後、承久の乱までの二十二年間で、比企の乱、畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦と三度の争乱と政変が起こっており、北条氏の強化及び幕府に脅威になりうる存在を抹殺していった。この間、三代将軍・源実朝に子が存在しなかったため、幕府は新皇将軍の擁立を目指し政子が上洛、院と密約を取る。しかし、承久元年(1219)正月に右大臣拝賀による鶴岡八幡宮参詣を終えた実朝は甥の公暁に暗殺された。その後に後鳥羽院は、親王将軍を「先々日本国を二つに分けることになるようなことを前もってできようか」と、国の分断と、世上が乱れる東国・坂東に新皇を送ることはためらう。幕府は、摂関家の九条道家の子であり、源頼朝と同母妹の曾孫である二歳の三寅を新将軍として鎌倉に迎え入れた。幼少の将軍の後見として北条政子が尼将軍に就く。
実朝の暗殺により幕府の勢力が後退したと見て後鳥羽院は、幕府の実質的権勢を握る北条義時へ、幕府の根幹たる地頭の任命権という難題を突き付けた。それを拒否した義時と後鳥羽院の関係は悪化する。後鳥羽院は武家政権を打倒し統治権の回復を目指していたかは定かではないが、二年後の承久三年後鳥羽上皇の北条義時への追討宣旨と挙兵を行った。
(写真:ウィキペディアより引用 北条政子像、頼家像、実朝像 )
北条政子と故頼朝の文官達の策略と戦略において過去例を見ない天皇・朝廷への東国武士団が軍事勢力として上洛する。東国武士は、自身の存続のために権力者になびき、この時代で培われた政治力と政治的地位を得るに至っていた。当時の御家人達は天皇・朝廷に背く事は、考えられない畏れ多い事であったが、北条政子と御家人との関係性は故頼朝の象徴として政子をとらえており、また義時への追討宣旨に従う事は、彼らの手中にした武士政権を手放す事でもあった。『吾妻鏡』『承久記』で記述される政子の御家人たちの対応は、義時追討宣旨を御家人たちに宣旨が幕府追討とすり替え、現在の御家人たちの存続は、故頼朝の御恩によるものと主張した。幕府は上洛の途で圧倒的な軍勢をまとめ上げ、勢田・宇治の戦いで官軍を打破し、上洛後の戦後処理に至った。わが国史上初めて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の配流を行う。また戦後処理と朝廷及び西国の監視・管理のため六波羅探題を設置する。そして皇位継承権等にも影響力を持つようになった。この体制は後醍醐天皇の建武の新政時一時除かれるが、以降明治まで引き続くことになる。
(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽天皇像、承久記絵巻)
承久の乱による戦勝が武士の時代を本格手に始動させた。北条泰時が入京後、六波羅探題として二年を迎えようとする元仁元年(1124)六月十三日、北条義時の突然の死去に対し、尼将軍・政子は全身全霊を以って甥の泰時を三代執権に擁立する。泰時四十二歳の時であった。政子には泰時以外の後継者の考えは無く、伊賀の変まで策略し擁立したと考えられる。嘉禄元年(1225)六月十日、前陸奥守正四位下大江朝臣広元法師が享年七十八歳で死去した。そして七月十一日には、北条政子が六十九歳で死去した。泰時は、幕府草創から支えた大江広元、と伯母である尼将軍の北条政子の死去により後見及び補佐をする人物を失うが、年齢の近い伯父・時房を連署として共に幕政を担い、それら重鎮の束縛と干渉を避けることが出来た。泰時の幕府執権として独自の政治手腕が求められる中、自身の政治体制を確立してゆく。『吾妻鏡』は以前に記載したように北条氏により後に編纂され、北条義時・子息の泰時の偉業について多く記載されており、特に泰時についてはその傾向が多大である。しかし、北条泰時の時代は争乱もなく北条執権体制を強化した。源頼朝から北条政子までの専制体制から集団指導体制、合議、制政治を打ち出し難局を切り抜けた。その背景には、泰時の誠実な人間性と、椅子の強さであり、頼朝の治世を継承し、先例における訴訟の裁断を行った事で明執権と称えられている。
(写真:ウィキペディアより引用 北条泰時花押)鎌倉法華堂跡(源頼朝墓、北条義時墓)
三代執権北条泰時は、律令が武士の社会に不適用な面も多くみられ、律令形式の明法道の研、究を行い、貞永元年(1232)に武士の武家成文法の『御成敗式目』を制定する。すでにこの時期において、朝廷における律令制の矛盾が多く表面化され、東国・坂東武士にとっては、そぐわない点が多く見られた。泰時は、頼朝以来の幕府の判例を基に「御成敗式目」による武士の法的規範が定める。しかし完全な物では無く、新しく対応しなければならない事例に対し随時追加法として制定してゆく。式目は、室町期・江戸期においても応用された武士の法的規範となった。そして「得宗家」という地位も確立させ、新たに得宗家に家令を設置し、得宗家の執事とした。この事で後に評定衆には参画出来ないが御家人たちの監視・管理を行い、権力を持つに至り、幕府と御家人との対立の構図となる。
この頃から貨幣経済が進行していた。泰時は、東国での年貢を貨幣による代替えを禁じたが、その流通を遮ることが出来ず、新しい価値観が貨幣により変えられ、商業が発展する。貨幣経済の発展は、後に御家人が所領からの収穫高と役による支出が合わず、領地運営に失敗し、領地を売り「無足の御家人」をもたらす。役を持たない経済的裕福な有徳人や徒党を組む悪党が財力を高めた。「得宗家の権力集中」と「無足の御家人」が幕府の衰退と滅亡の原因となる。元寇の役は、これらの要因により、鎌倉幕府の滅亡を加速させる要因であったが原因ではない。元寇の役での勲功による恩賞が、防衛戦であったため恩賞地を宛がうことが出来ず、御家人たちの戦費が賄われず、より一層の御家人の衰退が加速したことによる。しかしこれらは後の事であり、ここではこれくらいにしておこう。
鎌倉幕府と東国武士は、東国の一豪族であり武士である者が所領の存続と生き残るために朝廷と対峙する武士の独立政権を望んだ。源頼朝を擁立し幕府を構築した東国武士は、「御恩と奉公」による御家人という名称で頼朝との主従関係を結ぶ。そして頼朝死後に幕府が一豪族の武士である北条氏が執権に就き、その体制を強化していった。また、他の地域豪族であった東国武士達は、その体制の中で、拡大して行き政治力と政治的地位を得るに至って承久の乱後の恩賞地となった全国に東国武士が浸透していく壮大な変革時であった。泰時の執権時は戦乱も無く、中国的な様式・文化・宗教から日本独自の物が生まれ、浸透していった東国武士により現在の日本の形を形成していくことになる。 ―完―