坂東武士と鎌倉幕府 百二十三、幕府の変革と武士の変革 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』嘉禄元年(1225)七月十一日条、丑の刻(午前二時頃)に二位家(北条政子)が死去された。御年は六十九歳。政子は前大将軍(源頼朝)の後室であり、二代の将軍(頼家・実朝)の母である。前漢の呂后と同様、天下の政務を執り行われた。あるいはまた神功皇后の生まれ変わりとして我が国の根本を護られたのであろうかという

 どの時代においても為政者は、後の治世を後継者に委ねなければならない。北条政子の偉大なるところは、頼朝の死後、幕府と北条家を弟・義時と共に支えた。『吾妻鏡』等の資料を読むと、むしろ義時よりも政子が主導していたようにも考えられる。そして、自身の死を直前に北条泰時を選んだことである。後継者の選択を間違う事により、滅亡の危機を生じることは言うまでも無い。政子は、頼朝との嫡子・頼家の後継者の擁立し、失敗した。鎌倉幕府草創期における戦乱の世は一時終息した。北条執権体制の強化を図り承久の乱後は、安定期に入る。

 

 北条泰時は、『系図纂要』において母を「官女阿波局」との記載があるが、定かではない。多くの資料において、父義時との親子関係においては、あまり良くなかったとされる記述や、義時は嫡子として泰時を認めていたとも考えられる記述もある。承久の乱では東海道の大将軍として、乱後は最も重要な役職としての六波羅探題として戦後処理を行わせた。後継者問題が解消していない中、泰時が入京後二年を迎えようとする元仁二年(1124)六月十三日、北条義時の突然の死去に対し、政子は全身全霊を以って甥の泰時を擁立した。政子には泰時以外の後継者は無く、伊賀の変まで策略し擁立したと考えられる。泰時四十二歳の時であった。『吾妻鏡』には弓の使い手であった記述は残され、武勇には和田合戦、承久の乱における戦功があるが、現在は武士としての評価はそう高くない。しかし泰時の政治家としての評価は高く、泰時の堅実さ、道理に合った思考と、人に対し優しさを持った対応により多くの人々をひきつけ、そして人望を持った。戦乱期ではなく、安定期に入った世においては、泰時のような人材が好まれ、天は泰時を時代の担い手とした。私見であるが、私はこの時期までが鎌倉期の初期と考え、泰時の治政から八代執権時宗の時代までを中期と考えている。そして承久の乱後の変革した幕府の政治体制が動き出し、坂東武士も同様変革していった。

 

(写真:ウィキペディアより引用 和田合戦押破(歌川国芳)、北条泰時花押)

 泰時の時代の治政は、幕府草創期の主要な人材がほとんど亡くなり、新たな自身の政治を行う事が可能だったことが明執権としての要因である。また伯父の連署になる北条時房や明恵上人等の人脈に恵まれ、一層の評議性の強化を行う。そして道理と共に頼朝の意思を継、頼朝の先例を持っての治政。頻繁に提起される多くの訴訟問題の対応のため、公平に裁く裁判の基準となる武家成文法の『御成敗式目』を制定した。当初の式目は、未熟な物であったが、追加法で拡充して行き、後の江戸時代の『武家諸法度』が制定されるが、『御成敗式目』の法令を基本としている。また泰時は、「得宗家」の基本を形成し、後の「北条得宗家執権体制」へと発展させていった。

 

 坂東武士は、治承・寿永の乱からどのように変わっていったのか。彼らは律令制の下、自らが開墾した土地に対し、一所懸命と言葉にあるように命を懸け守った。彼らは、同族又は地域の有力豪族と婚姻関係を結びながら土地の支配権を安定させ、武力を養い、他の勢力と対抗する。しかし、朝廷の律令に基づく対応に翻弄された。中でも国衙による税の徴収を少しでも和らげるため、任地先に赴かない国司に変わる在住官人を求めたたり、荘園の領主・領家に対して自らの土地を寄進し、在地・在所の荘園管理者としての身分を求める。その身分は、領主・領家に任命権があるため、何時もその顔色を注視しなければならなかった。

京では、平治の乱以降に伊勢平氏の平家が君臨し、朝廷の役職の多くが、平家の武士にあてがわれた。貴族化する平家の武士。そして東国で土にまみれ、開墾に励む坂東武士等がいた。彼らは、天慶の乱で新皇を自称した平将門の血が脈々と受け継がれ、東国・坂東の地に武士の主張、また独立的政治体制を目指していたのかもしれない。

 

 平治の乱で敗れた河内源氏の源義朝の子、流罪人でありながら京の朝廷と対峙できる貴種として頼朝を拝し、以仁王の平家追討の綸旨により頼朝を担ぎ上げた。北陸では木曽義仲、尾張では源行家、坂東では源頼朝が挙兵し、治承寿永の乱が始まる。木曽義仲・源行家は、平家を駆逐し、入京を果たすが、混成勢力のため、秩序が保たれず、洛中での狼藉と以仁王の遺児・北陸宮の即位の主張により後白河法皇及び公卿たちに反感を買う。後白河法皇は、治承四年に鎌倉の大倉郷に拠点を置いた頼朝に上洛を即した。頼朝は院に対して東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように国司・本所へ返還させる内容の宣旨の発布を要求する。院は寿永二年十月宣旨において、北陸道を除く頼朝の要求を受け入れ、頼朝の東海道・東山道の国衙・荘園領をもとの通り領家に従わせる沙汰県が頼朝に認められ東国支配権を公認した。これにより平治の乱以降の流刑者としての立場であったが、元の従五位以下の身分に戻る。この宣旨は、時限立法的要素を持つ物であるが、反乱軍としてみなされていた頼朝の坂東武士の勢力は、正当性を持つ正規軍としての立場を得た。ここに幕府の形態が整ったと考えられる。源頼朝は、異母弟の範頼・義経を派遣し義仲の軍勢を破り滅ぼす。その後、一ノ谷、屋島の戦いで平家軍を破り、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。

 

 頼朝は、文治元年(1185)文治の勅許を得て頼朝に与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可し、ここで平家没管地に御家人に恩賞として守護・地頭職を与えた。文治の勅許は寿永二年十月宣旨の時限立法的な要素から脱却したと考えられる。坂東武士は頼朝挙兵前には、自身の領地を守るため独立的な統治権を求めたが、この治承寿永の乱により恩賞という恩給地を得ることになる。頼朝の幕府に奉功と御恩により御家人としての主従関係が構築され、恩賞地を得るための侵略的要素が強められていく。

 

 文治三年十月、頼朝の背後に強大な勢力を誇っていた奥州の藤原秀衡が没し、翌年二月に異母弟の義経の奥州潜伏が発覚する。朝廷は、奥州藤原氏の存続が巨大勢力となった頼朝の牽制になるため、鎌倉幕府と奥州藤原氏の戦を避けた。藤原基衡・泰衡に義経追討宣旨を二月と十月に出し、文治五年閏四月三十日に泰衡は衣川に住む良経を襲撃し自害へと追いやる。頼朝は、泰衡に義経を匿っていた罪は叛逆以上のものとして追討宣旨を朝廷に求めるが、藤原氏の存続を求める朝廷は勅許を下さなかった。しかし大庭景義の「軍忠は将軍の命を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により同年七月に泰衡追討に向かった。同年八月八日の石名坂(現福島市飯坂)から始まった戦いは圧倒的な戦力により各所で奥州軍を破った。そして同年九月三日泰衡は郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首は六日に先祖の源頼義が安部貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を晒す。

 

(写真:ウィキペディアより引用 平泉金色堂 無量光院)

 奥州合戦は頼朝自らの出陣で先祖の河内源氏の棟梁であった源頼義・義家の親子の前九年の役に佳例に倣うような形跡を残している。また頼朝自身に従う「御家人」の確立という政治的意図を持ち、そのための決起となったとも考えられる。坂東武士の思想には、所領の保守・堅持から侵略的拡大へと変わっていった。 ―続く