坂東武士と鎌倉幕府 百十五、後鳥羽院、隠岐へ | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

『吾妻鏡』承久三年(1221)七月十三日条は、上皇(後鳥羽)は鳥羽の行宮(あんぐう:鳥羽殿)から隠岐国に遷られた。甲冑の武士が御輿の前後を囲み、御共は女房二、三人と内蔵頭(くらのかみ)藤原清則入道であった。ただし清則は道中で急に召し返され、施薬院使(やくいん)和気長成入道と左衛門尉藤原能茂入道らが追って参ったと言う

 『承久記』「慈光寺本」では、伊藤祐時が身柄を受け取り。輿を進行方向と逆向きにする罪人移送の作法である、「四方の逆輿」に乗せたという。供奉したのは、伊王左衛門入道藤原の能茂と坊門信清の娘・頼仁親王の母「西ノ御方」坊門局ら女房に三人と、旅先での急死に備え聖(ひじり)一人であったとされ、どちらにしてもほんの少数の供奉人であった。「古活字本」には、後鳥羽の乳母二位殿(藤原謙子)、母・七條院(藤原殖子)、中宮の修明門院が見送り、御供には殿上人・出羽前司重房、内蔵権守清範、女房一人、伊賀局(亀菊)、聖一人、医師一人が随行している。

(写真:ウィキペディアより引用 水無瀬神社後鳥羽院像、承久記絵巻)

 同十三日に隠岐の国へ移し奉るべしと聞へしかば、御文遊ばして九条殿(道家)へ奉らせ給う。「君しがらみとなりて、留めさせ給ひなんや」と御歌を遊ばされける。と記している。これは、九条道家、鎌倉に下向した三寅・四代将軍の頼経の父に「君しがらみとなり」と、流れをせき止めるための柵、あるいは杭になってくれないかと言う懇願である。

 また、「黒染めの袖に情けを懸よかし涙計りにくちもこそすれ」、出家して黒染めの衣装を纏うような私二条をかけて欲しいものです。泣いているばかりいる私の相違の袖は涙のために朽ち果ててしまうとの意。この隠岐への流罪に中宮・修明門院や他の多くの女院・女御は誰一人ついていかず、白拍子上がりの亀菊だけが随行した。そして水無瀬殿の傍を通ると、「水瀬殿を当らせ給うとて爰(ここ)にてあらばやと思い召されけるこそ、せめての御事なれ。」と記され、水無瀬殿の側を通った時に後鳥羽院は、配流先がここであったらと思われ、よくよく思いつめられた事とされる。

「たち籠る關(かん)とはなさで水瀬河霧猶(なを)晴れぬ行末の空」、辺り一面に立ち込めてはいるが、私を引きとどめる席にはならない水瀬河の川霧よ。その川霧が晴れないように私も行く末が案ぜられず一向に気が晴れないと、あまりにも惨めな胸中を語っている。

 

(写真:ウィキペディアより引用 水無瀬神宮)

 『吾妻鏡』同月十三日条を続ける。今日、入道中納言(藤原)宗行は駿河国浮島原を過ぎ、荷物を背負った人夫が一人泣いているのに途中で出会った。黄門(宗行)が人夫に尋ねると、按察卿(藤原光親)の僮僕であった。昨日(光親が)梟首されたため、主君の遺言を拾って京に帰ると答えた。はかない人の世の悲しみは他人の身の上とも思われず、ますます魂が消えそうであった。死罪を免れないことは以前から考えの中にはあったが、あるいは虎口を脱すれば亀毛(あるはずのない))の命があるのではと、なお希望を残していたところ、同罪の人(の運命)がすでに定まったので全く死んだようであった。その心中を察すると、まことに憐れむべきである。宗行は黄瀬川宿で休息した際に文章を書く機会があったので傍らに書き付けた。

「今日すぐる身を浮島の原にても ついの道をば聞きさだめつる」。菊川駅では佳句を書いて永く伝えられ、黄瀬川で和歌を詠んで一時の愁いを慰めたという

 

 同十四日条、藍沢原で、黄門(藤原)宗行はとうとう白刃を逃れることが出来なかったという。年は四十七歳。最後まで法華経の読誦(独寿)を決して行われなかった。

同十八日条、甲斐宰相中将(藤原)範茂卿は式部丞(北条)朝時が預かって、足柄山の麓で早河の底に沈んだ、これは五体が揃っていなければ来世の障りとなるであろうと入水したいと望んだためである。。 

後鳥羽院一行は、明石を経て美作と伯耆の山中を超え、出雲国大船港に向かっている。

 同二十七日条、上皇(後鳥羽)が出雲国大船港に到着された。ここで御船に遷られた。御供の武士らは暇を賜ってほとんどが今日に帰った。その機会に、御和歌を七条院(藤原殖子)と修明門院(藤原重子)に献じられたという。

「タラチネノ消ヤラデマツ露ノ身ヲ 風ヨリサキニイカデトハマシ」

「シルラメヤ憂メヲミヲノ浦千鳥 島々シホル袖ノケシキヲ」

  

(写真:ウィキペディアより引用 隠岐神社境内、隠岐神社拝殿)

 承久三年八月五日条、後鳥羽院は隠岐国阿摩郡苅田郷(島根県隠岐郡中ノ島海士町)に到着された。仙洞は翠帳紅閨(すいちょうこうけい)から柴扉桑門(さいひそうもん)に改まり、場所はまた雲海が沈々として南北も知れないので、手紙や使者の便りを得ず、烟波(えんば:靄の立ち込めた水面)が満々として東西に迷うため、また月日の進み具合も分からない。ただ京の仙洞を離れる悲しみ、都を出る恨みで、いよいよ思い悩まれるばかりという。。隠岐の苅田御所に遷されてからは、望郷の思いが募り京に帰る事を望みながら、わびしい生活を送った事が窺われる。

「蛙鳴く苅田のいけのゆうだたみ 聞かましものは松風の音」

従来の培った和歌で心を慰め、後鳥羽院五百首(遠島五百首)の歌集を作られている。堀田善衛氏の『定家明月記私抄続編』に無実の罪によって配所の月を見た菅原道真にかけた歌が一首あるが、子の上皇が自らを罪なくして流された者と歎じている風情は、全くないのである。乱を発起したことについての弁明も全くない」と記している。

「我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け」

「おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり」

 

 この首に関して、この古註はず木の通りに記している。「我こそはという胆要なり。(藤原)家隆卿隠岐へ参り、十日ばかりありて帰らんとし給ふに、海風吹帰りがたければ、我こそは新島守となりて有共、など科なき家隆を浪風心して都へ返されぬ、と遊ばしける。去れば俄に風静まりて家隆卿都へ帰られしとなる。」。また「おなじ世に」は、生きたるうちに、特に都へ帰りて、という切々たる心であり、「毛深草よそに」は、今こそ都を遠く離れているがといういであり、

堀田善衛氏はこれら百首の古註を見ると無期配流者の心境が「我こそは」、の気の張と「おなじ世に、生きたる内に」の帰還希望の間に揺れ動く心境を持て余して、歌と歌論に専念する事を自らに強制したものであろうと。そして十九年にわたる島での生活が、実に並大抵のことではなかったことは察せられると記述されている。 ―続く