後鳥羽院と藤原定家についても述べさせていただく。承久二年二月十三日の順徳天皇の歌会で、定家の母の二十八回忌に当たる日で遠慮していたが、当日の夕方に蔵人兼宮内権大輔家光が三度まで出席するように文をよこしたので、出向いた。「かきつけてもちてまいりし二首」の次第である。
春山月 「さやかにもみるべき山はかすみつつ わが身の外も春の夜の月」
野外柳 「道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎きの煙くらべに」
初めの一種、春山月は、「春夜、はっきりと見えるはずの山はかすんで、月もおぼろに出ているが、この良夜は私には関わりないのだ」に首目は「道のほとりの野原の柳は下萌えした、ああ、あたかも、歎きのために立昇る私の胸の煙と競い合うかのように」という意味で、心中にある思いを述懐の形にで述べただけのものと考えて不思議はない。しかし、二首目の「道のべの」が後鳥羽院の目に触れてその激怒を買い定家は「勅勘(天使から受ける咎め、勘当)」を被っている。これは、健暦三年正月二十八日と二十九日に検非違使の長が高陽院(かのやいん)の柳が枯れたから勅命により定家の庭の柳日本を掘り起こし徴発した。定家は後鳥羽院の専横に激怒したと思われ『明月記』に院が蹴鞠をしていると「親権海ニ没シテ茲ニ卅廻」、健保の改元に対しては「此ノ声献宝(けんぽう)カ。献金ノ路ヲ称ス」と激烈な後鳥羽批判を行い、後鳥羽院の人となりを窺い知る事も出来る。
『明月記』によると文暦二年(1235)春頃に摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の環京を示唆するが北条泰時はこれを受け入れなかった。京への帰還が叶わぬまま十九年が過ぎ、四条天皇代の延応元年(1239)二月二十日、配所にて崩御、享年六十歳であった。同地で火葬され、火葬が行われた場所には後に御火葬塚が作られている。後鳥羽院を「ごとばんさん」と慕った中ノ島海士町の島民の気持ちは今も受け継がれ火葬塚の隣に隠岐神社が創建された。後鳥羽上皇の和歌に踊を付けた『承久楽』が隠岐神社で奉納されている。同年五月「顕徳院」と諡号(諡号)が贈られた。遺骨が仁治二年(1241)に京都大原の法華堂に安置された。
『吾妻鏡』延元元年三月十七日条、「六原の使者が(鎌倉)に到着した。去る二月二十二日、隠岐法王(後鳥羽)が遠方の死まで亡くなられた(御年は六十歳)。同二十五日に葬り申したという。」と簡単に記載されている。
壇ノ浦の戦いで剣璽(けんじ)が海中に没し、安徳天皇が退位しないまま後白河院の詔(みことのり)で元暦元年(1184)七月二十八日に四歳で後鳥羽帝は「神器無き即位」を行った。後鳥羽帝十九歳の建久九年(1198)土御門天皇に譲位し、院政を始めた。承元四年(1210)に順徳天皇の践祚(せんそ)に際しては、三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなし用いられている。そして仲恭天皇の三代の間の二十三年間院政を続けた。「神器無き即位」を行った後鳥羽帝は、劣等的な意識の中、屈辱感と自己嫌悪がその後の行動に反映されているとされる。それが、幼少期からのその屈辱感に対して、あらゆる武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、西面の武士の設置等で王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。しかし、後鳥羽院の治世を批判する際に「神器無き即位」が不徳を結び付けられることもあった。
承久の乱後にも「神器無き即位」の経緯で不評を買い続け、専制的な謀政や無謀な挙兵に対し院の側近以外の貴族達は、冷ややかな対応に終始している。このため承久の乱後、幕府の政治的影響力の拡大があったにせよ後鳥羽院の同情的な意見は少なかった。『愚管抄』、『六代勝事記』、『新皇正統記』等ではいずれも「院が波動的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と厳しく評価している。
(写真:ウィキペディアより引用 慈円)
『愚管抄』により慈円は、「保元元年(1156)七月二日、鳥羽法皇お亡くなりになって後、日本国始まって以来の叛乱とも言うべき事件が起こって、それ以後は武者の世になってしまった 。」と保元・平治の乱で世の中の変革を記述している。そしてこの承久の乱について後鳥羽上皇の心得違いとして「人という者は『似た者が集まる』ということがその性質の最も究極のものである。」と記し、世の末には悪人は一つに心を合わせて世を変えようとして上皇も近臣も虚言を持って世を治める。有能な働きをする人はいないわけではないが世のありさまを見て出て来ないのであろう。世の末には民は心の正直な将軍が出てきて糺さなければ治りようがない。そして摂関家将軍がこうして出てくるのは、八幡大菩薩の御計らいで、世を守り、君を守るべき摂籙(せつろく:摂政の唐名)文武を兼ねた者を作られ、世のため訓のために八幡大菩薩が進上なさったのだと言う事を、後鳥羽上皇はお分かりにならないのである。君と臣の道理が理解できず、高官位の人多すぎる中、人材無き末の世である。君が王道の道理をふみ違えたりなされないように御守りせよとの神々の命であり、君が良い摂政を嫉む心をお持ちになったならば王道の道理を保つことが出来ない。天皇を強く後見するのは、太神宮・八幡大菩薩の御心であろう。昔から移り変わってきたこの末の世の道理を皇祖神や国家の守護神が照覧なさっていることについても御存じなくあさはかな御処置を取っておいでになる。慈円自身が九条兼実の弟で、九条家に関わる人物である。鎌倉の将軍に擁立した九条頼経に贔屓目にも見られるが、王道の道理を理解せず、後鳥羽上皇を批判的に記述した。『愚管抄』は院の挙兵を思いとどまらせる目的で、慈円が著されたともいわれている。
(写真:ウィキペディアより引用 北畠親房像 菊池容斎『前賢故実』より)
後の南北朝期に著された『新皇正統記』にて北畠親房は、「さて、この世の乱を思うと、まことに後の世においては迷うこともあるであろう。また、下克上の端緒にもなる。その起こる理由をよくわきまえておかなければならない。源頼朝の勲功は昔からたぐいなき程のものであったが、ひとえに天下を掌握してしまったことは、天皇として心やすからずにお思いになるのも当然だろう。まして、頼朝の子孫が絶え、尼となった北条政子や、陪臣の北条義時が幕政を執行する世になってからは、後鳥羽上皇が彼らの地位を削って、御心のままに政治を執り行うべきである、ということは謂(いわ)れ無きに非にあらず。 しかし、白河・鳥羽の御代の時より天皇政治の古き姿はしだいに衰え、後白河院の御時になると、武力による争いが続き、奸臣により世は乱れた。天下の民はほとんど塗炭の苦しみに落ち込んだ。 この時、頼朝が武威を振るってその乱を鎮めた。王室は古き姿にかえるまでには至らなかったが、都の戦塵は治まり、万民の負担も軽くなった。上も下も安堵し、国の東からも西からも人々は頼朝の武徳に伏したので、実朝が暗殺されても、幕府に背く者があったとは聞かない。天皇がそれにもまさるほどの徳政を行う事なくして、どうして簡単に幕府を倒すことが出来るだろうか。たとえ倒すことができたとしても、民が安心できなければ、天も決して与することはない。
次に、王者の軍(いくさ)と云うは、科(とが)ある者のみを討ち、罪のない者を滅ぼすことはない。
頼朝は高官にのぼり、守護の職を賜ったが、これはすべて後白河法皇の勅裁によるものである。頼朝が私欲で盗み取ったものと決めつけることはできない。頼朝の跡を後室の政子が仕切り、義時が長く政務を執行し、人望に背かなかったので、臣下として罪があったというべきではない。
一応の理由だけで追討の兵を挙げられたことは、君としての過ちと申すべきであろう。謀叛を起こした朝敵が利を得たことを推論する事は出来ない。後鳥羽上皇の追討は、時節に至らず、天も許さぬことは疑いのない。 しかし、臣下が君を討つということは極めて非道である。いつの日か皇室の威徳に従わなければならなくなるだろう。まず、真の徳政を行い、朝威を立て、幕府を倒すだけの道をつくり出し、その先のことは、実現できてからのことである。且つ、世の中の情勢をよく見て、私心を無くして、征討の軍を動かすのか、弓矢を収めるのか、天の命に任せ、人々の望むところに従われるべきである。
最後には後醍醐天皇は、皇位継承の道も正路に復され、後子孫の世に、公武一統の聖運を開かれたのだから、本意が実現されなかったわけではなく、たとえ一時であっても、鎮定されたが、不本意なことである。」と記されている。 ―続く