承久三年(1221)七月一日、合戦の首謀者で公卿以下の人々を断罪にせよとの事書に、北条泰時は速やかに公卿達を関東に連行するよう預かり人等に命じている。
翌二日、西面の武士であった後藤検非違使従五位上行左衛門少尉藤原朝臣基清、五条筑後守従五位下行平朝臣有範、佐々木山城守従五位下源朝臣広綱、江検非違使従五位下行左衛門少尉大江朝臣能範等は、関東の被官の武士であり、源実朝に荘園を賜り、推挙により五位に昇った者であったが、勅名を重んじたとしても、御恩を忘れ、人々は全く弓馬の道ではなく、彼らを嫌った。そしてこの日、梟首された。死刑は朝廷の決定にはよらないという。また、和田義盛の孫で源実朝に和歌を通し寵臣で和田合戦後に北条義時討伐の為に官軍に加わった和田朝盛が、この日に捕らわれている。同五日、小雨が降る中一条宰相中将信能は遠山左衛門尉景朋に伴われて美濃に到着し、美濃国遠山荘で斬首された。今回の合戦の首謀者は、みな洛中で斬首するよう関東の命であったが泰時は、洛中での混乱を避けるため、今は洛外で行うのがよいとして計らったという。
承久三年七月六日条、「後鳥羽院は四辻の仙洞より鳥羽殿に遷られた。大宮中納言(藤原実氏)、左宰相中将(藤原成信)左衛門少尉(藤原能茂)の三人がそれぞれ騎馬で御牛舎の後を供奉した。洛中の民家は主を失って扉を閉じ、離宮は東国の武士たちに取り囲んでいる。君臣共に公開は断腸の思いであろう。」。
同月八日、『吾妻鏡』では、鳥羽院の同腹兄「持明院の宮」守貞親王(行助入道親王)を院に定め、世を治めるという。守貞の出家をしていなかった三男である茂仁(ゆたひと)親王を次の天皇に立て後堀川天皇を即位させた。年は十歳である。茂仁親王の母である持明院棟子(北白川院)は父・持明院基家が源頼朝の妹婿である一条能保の叔父であり、母は平頼盛の娘で、平治の乱の際に頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる。源顕信(村上源氏顕房流、正三位、非参議、治部卿)の娘・顕子が母である。前関白藤原家実が摂政の詔(みことのり)を受けた。鎌倉幕府、北条執権体制においてこの人事は、源頼朝の関係性を受け継ぐことで東国の御家人に対する影響を考えると最良の人事であったと注目せざるを得ない。また、幕府が天皇継承の関与を持つことになり、この承久の乱の戦勝において幕府の政治的一元化が成されたとされる。
「本院」後鳥羽院は、この日に御戒師を御室(道助:入道親王)により出家された。似絵(にせえ)の名手の藤原信実朝臣を召して御影が描かれたとされ、大阪府三島郡島本町の水瀬神宮に所蔵されている。またこの日、後鳥羽院と兄「持明院の宮」守貞親王の母・七条院(藤原殖子)が、警護の武士を説得して御幸され、後鳥羽院に会われたが、ただ悲涙を抑えて帰られたという。後鳥羽院の後悔も断腸の思いであっただろう。
『吾妻鏡』同九日条、「今日、践祚が行われた。先帝(仲恭)は高陽院(かやのいん)の皇居で譲位され、密かに九条院に行幸された。戌の刻に新帝後堀川天皇、後高倉院の二の宮が持明院殿より閑院に帰られた。その間、持明院殿より禁裏に至るまで、兵士が道中を警護したという。」。
同十日条、「中御門入道禅中納言(藤原)宗行は小山新左衛門尉朝長に伴われて下向し、今日は遠江国菊川駅に泊まられたが、一晩中眠ることが出来ず、一人閑窓に向かって法華経を呼んだ。また宿の柱に書き付けた。「昔、南陽県で破棄苦から下る水を及んで寿命を延ばした。東海道の菊川は、その西岸に泊まって命を失う。」
『承久記』「慈光寺本」は、七月十日に北条泰時の子・時氏が鳥羽殿に参上し、弓の片端で御簾を書き上げ「君は流罪におなりになりました。早くおいで下さいませ」と責め立てたと記される。
同十一日、後鳥羽院に参じて逆特に従った者らの所領が、北条時房以下の恩賞としてあてがわれた。この日、後鳥羽院に、従った山城守佐々木広綱の子息・勢多伽丸(せいたかまる)は出家して仁和寺に住み道助入道親王に育てられていた。この日、勢多伽丸は父広綱の謀反の連座としてとらえられ、仁和寺より六波羅に召し出される。道助は、芝築地(しばついじ)上座真昭に付き添わせ「広綱の重罪については何も言う事は出来ないが、この童は門弟として久しく親しんでいたので特に哀れである。十余歳の孤児で頼りも無いので、どのような悪行が出来ようか。身柄を預け置かれたい」と道助と勢多伽丸の母は助命・嘆願する。泰時は御使者の真昭に会って「厳命を重んじて、暫く猶予します」と、また「容貌の華麗な様子は、母の愁いと共に憐れみに堪えない。」と言った。芝築地(上座真昭)と勢多伽丸らは、仁和寺に帰る事を許された。しかし,宇治の合戦で特に武功を挙げた伯父で広綱の弟の佐々木信綱が、自分の武功を取り消しにしても勢多伽丸の処刑を強く主張する。信綱は泰時の妹婿であり、幕府においても枢要な人物である。また先日の宇治川の戦いにおける勲功のため断腸の思いで、あらためて勢多伽丸を呼び返し身柄を信綱に与えた。『吾妻鏡』ではその後、梟首されたと記され、梟首とは、斬首の後、晒し首にすることである。『承久記』には享年十四歳と記されている。
(写真:ウィキペディアより引用 水無瀬神宮)
後鳥羽院は隠岐国に、順徳上皇は佐渡島に流罪。討幕計画に反対したとされる土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流され、仲恭天皇は廃された。一条信能、藤原(葉室)光親・宗行、源有雅、藤原(高倉)範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上処刑され、坊門忠信らその他院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった。京方に与した藤原秀康、・秀澄、後藤元清、佐々木経高、佐々木広綱、河野通信ら御家人等やその他武士の多くが粛正及び追放されているが、大江親広は父・広元の嘆願により赦免されている。
同十二日条、「按察(あぜち)卿(藤原光親:先月出家。法名西親)は武田五郎信光が安塚って下向した。そこに鎌倉の使者が駿河国の車返しの辺りで出会い、誅殺せよと伝えたので、加古坂で梟首した。時に年は四十六歳という。光親卿は(後鳥羽の)並びない寵臣であった。また家門の長で、才能は優れていた。今度の経緯については特に戦々恐々の思いを抱いて、頻りに君(後鳥羽)を正しい判断に導こうとしたが諫言の趣旨がたいそう(後鳥羽院の)お考えに背いたので進退が窮まり、追討の宣旨を書き下したのである。「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」と言うことであろう。その諫言の申し状数十枚が仙洞に残っており、後日披露された時、北条義時はたいそう後悔したという。」。
(写真:ウィキペディアより引用 後鳥羽院像、承久記絵巻 後鳥羽院隠岐へ流罪)
承久三年(1221)七月十三日、鎌倉幕府執権体制による後鳥羽の対応について、後鳥羽院は隠岐国に、順徳上皇は佐渡島に流罪。討幕計画に反対したとされる土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されたが、後に阿波に赴く。後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流され、仲恭天皇は廃された。そして三院の親族に対し臣籍降下を行わせ、皇位継承から外している。 ―続く
(写真:島本町ホームページ 水無瀬神宮所蔵。現在、京都国立博物館に寄託。藤原信実朝臣作後鳥羽院像、宸翰手印置文)
後鳥羽上皇の死の直前に、勅命により水無瀬殿を守っていた水無瀬信成・親成父子に申し送った置き文である。自身の最後が近いことを告げ「日頃の奉公を不便に思うが便宜の所領もないので、力及ばず、水無瀬・井内両荘を相違なく知行して、わが後生をもかえすがえす弔うように」という内容である。置き文の一面におされた朱の手印が、上皇の激しい性格と無念さを示しているかに見える。