坂東武士と鎌倉幕府 百十三、承久の乱 戦後処理 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 承久三年六月十五日に入京し、洛中の諸所で多くの合戦が行われ、官軍においては、すでに戦う余力は無かった。そして十六日に残党を駆逐した事は、いかに凄惨なものだったかを物語っている。

 

(写真:京都 六波羅蜜寺、清水寺)

 『吾妻鏡』承久三年六月十六日条、相州・北条時房と武州・北条泰時の両国司が六波羅の館に移った。右京兆・北条義時の爪牙・耳目(そうが・じもく:手足となり働く者)として国を治める計略を考え、武家の安全を求めるものである。総じてこの度の合戦では残党が多いとはいえ、疑わしき者の刑は軽くするとの合議を経て、四面に張った(包囲)綱の三面を解いた。これは世の人が称賛するところであった。佐々木中務入道経蓮(経高)は、後鳥羽院に祇候して合戦の計略を考え、官軍が敗走後は鷲尾(京都市東山区北部)に居るという風聞があったので泰時は使者を派遣して言った。「決して命を捨ててはならない。関東に申請して恩赦しよう」。

経蓮経蓮がその言葉を聞くや、

「これは自殺を進める使者である。どうしてこれを恥じない事があろうか」。

自ら刀をとって身体と手足を貫き破り、まだ命があるうちに助けられて輿に乗り、六波羅に向かった。泰時はその様子を見て、

「指示した旨に反して自害とするとは、本意に背くことだ。」と言った。

この時、経蓮は僅かに両眼を開け爽快に笑い、言葉を発することなく死去したと言う。また謀反の者が諸所で生け捕られた中で、清水寺の住僧の敬月法師は大した勇士ではなかったが、藤原範茂卿に従い宇治に向かったため許す事は出来なかった。しかし、一首の和歌を泰時に献じたので、泰時は感心のあまり死罪を減軽し遠流に処するよう長沼五郎宗政に命じたという。

「勅なれば 身をば捨てき 武士の やそ宇治河の 瀬にはたたねど」

(天皇の勅旨であれば身をすてて、もののふの八十は宇治川の瀬には立つのだ)と柿本人麻呂の題詩である。

この日、泰時は関東に飛脚を遣わした。合戦が無事に終わったと申すためである。。 

 

 『吾妻鏡』承久三年(1221)六月十七日によると六波羅で勇士らの勲功の浅深(せんさいん)が糺(ただ)さた。宇治川での渡河の先陣について佐々木信綱と芝田義兼が争論となり、北条時房・泰時の前で対決となった。両社に言い分があるが、側にいた春日刑部三郎貞幸に起請文を提出させ述べさせた。「佐々木の馬が二人に馬の頭より鞭の長さほど先にいた」と言い。泰時はさらに側にいた者にも尋ねたところ答えが一致していた。泰時は義兼を呼び「言い争う事はよくない。ただ貞幸らが申した通りに関東への注進を行おうと思うので、勲功の恩賞については、きっと思い通りになるだろう」。そして兼義は「たとえ多くの恩賞をうけずとも、この争論に関しては承服できません。」と言ったと記される。

去る十四日の宇治川の合戦で、芝田義兼は北条泰時の命により増水し白濁する宇治川の浅瀬を探し出し、泰時に報せ、そこから渡河が行われた。これは大いなる勲功であるが、武士にとっての先陣は、当時にして最大の勲功であった。幕府は御家人に対する統制上、勇士らの勲功の浅深を即刻糺さなければならない。東国武士の貪欲な恩賞に対する思いと、先陣と言う名誉がいかに大事であったかを語っている。また、それを差配する事も大将軍として果たされなければならない事であった。十七日には、六波羅で勇士らの勲功の浅深が糺されたことは、京中を全て掌握できた結果である。「六月十四日に宇治の合戦で敵を討った人々」、「六月十三日・十四日宇治橋の合戦での負傷した人々」十三日、三十五人。十四日、九十八人、合計百三十二人。「六月十四日に宇治橋の合戦で河を超えて攻め進んだ時、味方の人々の中で死んだ者」九十七名。討ち取った数は二百五十五人であった。

 

 翌六月十八日条、今日、使者を関東に遣わした。これは、この度の合戦の間に兵を討ったり、また負傷したり、官軍に討ち取られたりした者など、いずれも多く、官判官代(実忠)・後藤左衛門尉(基綱)・金持兵衛尉等が調査し、その交名を記して泰時に送ってきた。そこで勲功の恩賞を行われるために(鎌倉)に遣わしたのである。。北条泰時は、東国武士にとっての「御恩と奉公」に基づき早急な対応を行っていた。承久の乱での官軍側の残党の征討は、徹底的に長期間に及び行われている。仁和寺の僧侶が書いた『承久三年四年日時記』六月十九日条には、「逃亡した藤原秀康以下を追討せよとの宣旨が「京畿諸国」に下された」とある。

『吾妻鏡』同日条では、六波羅で錦織判官代義継を生け捕りにしたと記されている。「義継は弓馬・相撲に秀でた者で、力は定人を超える勇士である。」逃げ切れることが出来ないと思い、突然に六波羅に現れ、佐野太郎・同次郎入道・同三郎入道らが取り押さえようとしたが、屈服せず、佐野の郎従も加わり義継を捕らえたと言う。 

 

(写真:ウィキペディアより引用 大江広元像、後鳥羽院像)

 同二十日条、上皇(後鳥羽)が高陽院(かやのいん)から四辻に御幸された。土御門、新院(順徳)・六条宮(雅成親王)、冷泉宮(頼仁親王)は元の御所に帰られた。主上(仲恭)のみが高陽院におられたという。晩になって美濃源氏の神地(こうずち)蔵人・頼経入道と一味十余人が貴船の辺りで本間兵衛尉に生け捕られた。また多田蔵人基綱も梟首されたという。

二十三日、去る十六日の北条時房・泰時からの飛脚が今夜丑の刻(午前二時頃)に鎌倉に届いた。合戦は無事に終わり、世の中が静まった経緯を詳細に書き留められた書状を開かれると北条義時の公私の喜びは、たとえ様もなかった。直ちに公卿・殿上人の罪名以下、洛中の事が定められ、大管領禅門(覚阿:大江広元)が文治元年の処置を先例に勘案して計らい、事書を整えた。進士判官代(橘)高国が筆を執って記したという。

翌二十四日条、北条時房・泰時らの申請通りに合戦の首謀者の公卿の身柄が六波羅に移された。按察使(あぜち)光親卿(武田五郎信光が預かる)、中納言(藤原)宗行卿(小山新左衛門尉朝長が預かり)、入道二位兵衛督(源)有雅卿(小笠原次郎長清が預かり)、宰相中将(藤原)範茂卿(式部丞北条朝時が預かり)である。今日、寅の刻(午前四時頃)に安藤新左衛門尉光成が昨日の事書を持ち、関東を出て上洛した。京都で処置すべき条々を右京兆(北条義時)が直接に光成によくよく指示したという。

 幕府は、戦勝に喜ぶばかりではおられなかった。北条義時は、今回の合戦において後鳥羽院及び合戦の首謀者である公卿・殿上人の処罰、朝廷人事の刷新、残党の征討と戦後処理を厳格かつ迅速に断行しなければならかった。

 

 同二十五日、合戦の首謀者がさらに六波羅に移され、大納言坊門忠信卿は千葉介胤綱が、宰相中将一条信能は遠山景朝が、刑部僧正長厳・観厳は結城朝光が預かった。熊野法印快実・天野四郎左衛門尉等は梟首されている。二位法印尊長・能登守藤原秀康らは逃亡したという。また、熊野法印(快実)、天野四郎左衛門尉等は梟首されたという。

『承久記』「古活字本」では、「この人々の跡に残された家族の嘆きたとえようもなく、座を並べ袖を連ねた公卿・殿上人にも遠ざかり、枕を交わし寝具を重ねた妻子にも分かれ、郷は有れども人はおらず、宿所は焼かれた。徒に山野の嵐に身を任せ、心ならぬ月を見て、故郷の空に遠ざかり、切事は近くなれば、ただ悲しみの涙を流すだけであった」と記されている。

 同二十八日、伊予国住人の河野入道通信は東国の武士を引き連れ合戦を行ったため首謀者とし、北条泰時は伊予国内の河野に味方しなかった武士に通信の討伐を命じている。

 

 同二十九日、去る二十四日に北条義時が京で処置すべき条々を直接指示し、事書きを持たせた安藤新左衛門尉光成が、鎌倉を出て京の六波羅着いた。洛中・洛外の謀反の 者を断罪されるよう条々を詳しく述べた。北条時房・泰時は事書を開き見て、三浦義村・毛利入道らと評議を行っている。残党の征討は、その後も長く続く。同年九月に、藤原秀康・秀澄兄弟が南都に隠れ住んでいるとの報せが六波羅に届き、北条時房が追討の為に家人を向かわせた。二人は河内国に逃れたが、同年十月六日に捕縛され六波羅に護送された後に斬首に処されている。 ―続く