坂東武士と鎌倉幕府 百、実朝暗殺の黒幕 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺され東国武士たちは、騒然となる。しかし、京の後鳥羽院にとっても、実朝を失ったことは、自身の権勢において不安を募らせることになった。この実朝暗殺に対し、様々な黒幕説が唱えられる。執権の北条義時説、公暁の乳母夫である三浦義村説、そして後鳥羽院説など挙げられる。

 その日に北条義時は、御剣役を代わり、命が長らえた事を『吾妻鏡』に長きに順序立て、義時の夢の中での戌神によるお告げ、その霊夢により創建された大倉の覚園寺の薬師堂に薬師如来が安置された事、八幡宮寺での凶兆の兆し等、必要以上に弁明を記載している。誰もが義時を疑う事に対する釈明であるように考えられるだろう。私見として、釈明せざるを得ない義時の罪業が比企の乱、二代将軍頼家の暗殺、畠山重忠の乱、牧氏事件、和田合戦等の関与また首謀者として見られ、当日の御剣役を源仲章に代わり、仲章が実朝とともに殺害され、義時は存命した。これらの事を総合的に考えるとあまりにも巧妙すぎているからである。

 

 乳母夫の知略に長けた三浦義村は、公卿の実朝・義時暗殺により、公暁を支援する事で後の執権体制を義村が担うという計略が考えられる。しかし公暁が暗殺に成功したとしても、実際に四代将軍になりえる可能性は少ない。そこには尼御台・北条政子の存在は、大きく、和田合戦で活躍した北条泰時・時房の北条氏、足利氏、安達氏等御家人の統率は不可能であっただろう。将軍実朝の後見としての尼御台(政子)と執権義時との信頼関係と現状の地位を揺るがす必要が無く、義村が現状を変える事を首謀したならば、和田合戦において和田勢に与していたであろう。公卿の実朝暗殺は義村にとってはおもいがけない迷惑なことであったと考える。また、後鳥羽院と実朝においては、千幡の元服時に実朝の名を与えたとされ、実朝が後鳥羽院を信頼し主従関係的な要素を強く示しており、後鳥羽院にとっては自身の権勢を保つうえで、軍事・警察権を担い、治安を司る忠実な臣下としての実朝の存在は必要な人材であった。山岡瞳氏は、建保五年(1217)に右大将の地位を巡り西園寺公経と大炊御門師経が争い、公経が後鳥羽上皇の怒りを買った際に、実朝が遠縁の公経のために取り成した事を上皇は内心快く思わず、実朝と上皇の間に隙が生じ改善されなかった見方がある。しかし実朝の官位の昇級は、自身の権威を挙げるために後鳥羽院が行ったと考える。この時後鳥羽上皇は実朝の後継問題をかかえており、鎌倉が安寧であれば、親王を将軍として下向させれば、後鳥羽上皇が権威と軍事力を併せ持つことになる。したがって、後鳥羽上皇にとっては、鎌倉が安定であることを望んでいたことに間違いはない。実朝暗殺の首謀者の通説は、公暁の単独による父頼朝の仇と自身の将軍職の就任を狙ったと考える。そこには、幕府内で将軍後継問題が親王将軍の擁立に決定した事で、公暁が将軍になる手段を失い、凶行に走った。

 

 実朝暗殺後、新将軍が空位であった。しかし、去る建保六年(1218)二月四日に御台所北条政子が実朝病気平癒の祈願で熊野詣の為に上洛し、『吾妻鏡』では、その事だけが記載されており、その後、実朝暗殺後に約束の親王下向の要請を行っている。その空白部を補うのが『愚管抄』で、その際に実朝の後継問題について記載されている。後鳥羽院の親王を将軍に据える親王将軍の話が、正子の熊野詣で上洛した際に後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面していた。「実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていた」と記述されている。また、実朝は、将軍を親王将軍に譲り、自身は後見としての地位を築こうとしたとされる。幕府と朝廷の協調関係を継続させ、さらに幕府の権威を高めようとしたと考えられるが、そこに北条氏の位置づけや義時に影響する物はなく、この継問題は政子を中心に義時等の北条氏と大江広元等の考えであったと思われる。

 

 『吾妻鏡』の実朝の昇進に伴う官打ちの件や、唐舟造船の諫言を北条義時、大江広元が行っている事など、また、後鳥羽上皇寄りの源仲章の台頭が目立ち、政敵へと変化しているようにも見え、実朝と義時の間に隙が生じているように考えられる。私自身、義時が、この暗殺計画を知っていたのではと考えるのは事実だ。公暁による実朝の暗殺を知りえた義時は、拝賀の当日、御剣役を源仲章に譲り自邸に戻ったとされる。『愚管抄』では、義時は実朝の命により立を捧げて中門に留まり、儀式の行われた本宮には同行しなかったとある。北条義時は北条にとって得策でない限り動かず、政子の子・実朝の健在こそが北条にとって有益な事であったと思う。しかし、実朝の後継問題にある程度見通しが立ったこの時点で、親王将軍を擁立すれば、後鳥羽上皇・朝廷に対して人質を取ったともいえる。親王擁立に対し後見となる実朝や源仲章の存在は、北条氏の地位を低下させる事であったとも考えられ、実朝と仲章両人の排除にうってつけであったのではないかと。

 

 『吾妻鏡』承久元年(1219)正月二十七日条に、そもそも今日の不祥事については前々から異変を示すような出来事がいくつもあった。ご出発の時になって、大江広元が参って申した。

「覚阿(広元)は成人した後、これまで目に涙を浮かべた事はありませんでしたが、今傍におりますと、落涙を禁じません。これはただ事ではありません。きっと何かわけがあるはずです。東大寺供養の日丹生大将軍(源頼朝)が出かけられた時の先例に従い、御束帯の下に腹巻を付けてください」。

しかし仲章朝臣が申した。「大臣・大将に昇進した人が、そのようにしたことはこれまで有りません。

そこで止められた。また公氏が御結髪に祇候していたところ、実朝は自ら鬢の毛を一筋抜いて、形見だと言ってこれを賜った。その後、庭の梅を御覧になって禁忌の和歌をよまれた。

出でていなば 主なき宿と成ぬとも 軒端の梅よ春をわするな(菅原道真の東風吹かば、を本歌とする)

その後御所南門を出られるとき、不思議な鳩が頻りに鳴き囀っており、牛舎を下りられる時には、剣を付き折られたという。そして、実朝の死は、源頼朝以来、幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋をここで幕を下ろした。 ―続く