坂東武士と鎌倉幕府 九十九、実朝暗殺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 去る健暦元年(1211)九月十五日、二代将軍頼朝の次子・善哉は十二歳で鶴岡八幡宮別当定暁の下で出家し公暁の法名を受け、翌日、受戒の為に上洛し、京都の園城寺の公胤の門弟として公胤の受法の弟子となる。健保五年(1217)五月十一日に鶴岡八幡宮別当三位僧定暁が腫物を患い死去した。そして、尼御台所(政子)の命により欠員となった別当に公暁を補任し、六月二十日に鎌倉に戻り鶴岡八幡宮別当に就いている。同年十月十一日、阿闍梨公暁が鶴岡別当に補任されてから、初めて神拝が行われた。また宿願の為に、鶴岡八幡宮寺で千日の参篭を行い、翌月の十二月五日、公暁が鶴岡八幡宮に参籠して全く退出しないまま幾つかの祈祷を行っているが、いっこうに髪を剃る事もなく、人はこれを不審に思ったと言う。

 建保六年(1218)正月二十一日、実朝は権大納言を任じられる。『吾妻鏡』では、この間には鎌倉と京の間でのやり取りが多く検出される。将軍実朝は北条泰時の讃岐守の推挙を行い京都守護の駿の守・中原季時に速やかに奏聞するよう伝え、後鳥羽上皇の勅許を受けた後に任官者を申し入れるとの事で、進められた。二月に入り、四日に御台所政子が弟時房を付き従えて熊野さん参詣のため上洛する。二月十二日、実朝は左大将任官を望み、左大将に任じされることを朝廷に申請する為、波多野朝定が上洛した。文章博士源仲章が侍読(じとう:天皇東宮に侍して学問を教授する職)に就き、昇殿を許す宣下があった。また、同月二十三日に京の使者が鎌倉に着き、去る十二日に関東から讃岐守の推挙を聞き入れて鳥羽上皇は、「速やかに任官者を申すよう」命じられたとある。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源実朝像、後鳥羽天皇像)

 三月十六日、去る六日の除目を持参して波多野朝定が、京から鎌倉に帰り、実朝は左大将の任官を受けた。この除目で多くの者が叙任の朝恩を受けている。同月十八日には、権少外記中原重綱が実朝の左馬寮御監叙任の宣旨を持参する勅使として鎌倉に着いた。左馬寮御監とは左馬寮の長官である左馬守の上に置かれた官職で名誉職とされ左近衛大将が兼任した。中原重綱は、鎌倉での逗留中大いに供応を受けに十四日に京に戻る。その際に、実朝から北条泰時が讃岐の守に任じられると、過分であると言って強く辞退し、この事を奏上するように命じられたとある。その後、泰時は讃岐守に転任している。

 同年六月二十七日、実朝が左近衛大将に任じられ、鶴岡八幡宮への拝賀が行われた。その行列の序列として近衛府の将監・将曹・府生の一員。殿上人の十名で、その中に源仲章が入っている。続き前駈の十六人の内に右京権大夫北条義時朝臣の名が記されており、公式行事の序列を窺うことが出来る。

 

(写真:鎌倉覚園寺)

 同年七月九日、義時は夢の中で薬師十二神将の内の戌審が枕元に立ち、「今年の神拝では何事もなかったが、来年の拝賀の日は供奉されぬよう」。義時が目を覚ましてから、不思議に思い、またその意図を図りかねたと言う。しかし義時は、壮年のはじめから十二神将への祈祷をつづけ、今の夢のお告げを信じないわけには行かず日柄を選び示威の建立を命じた。弟の北条時房、嫡子の泰時が「今年は将軍家(実朝)の御神拝のため殿上人以下が鎌倉に参ります。その間に御家人も庶民等も多くの財産を費やし、その歎きがまだ止まない内に、また造営を続けて行われるのは、撫民にはならないでしょう」。と諫言した。義時は、このお告げを自身の安全のための宿願であり、自身の負担により大倉に薬師堂(覚園寺)を建立する事を決めたと言う。またこの月、侍所所司五名が定められ、北条泰時を別当となる。十月十九日、実朝は内大臣(右大臣)に任じられ、同二十六日、北条政子は従二位に叙された。

 

『吾妻鏡』承久元年(1219:建保七年で四月の十二日に承久に改元)正月二十三日夕方から雪が降り、夜になると一尺余り積もったとある。正月二十三日、将軍実朝の内大臣拝賀に付き従うため、実朝室(西八条禅尼)の兄・坊門大納言忠信が京から鎌倉に到着し、その他の公卿、殿上人が鎌倉に下向した。宿所は北条義時の大倉邸が指定されている。翌二十四日、白雪が山に満ち、地に積もった。坊門忠清が御所に参り御台所(実朝室)に対面する。実朝の御前で酒宴が行われ遊興の春の一日を費やした。同月二十五日、昨夜、右馬権頭頼茂朝臣が鶴岡宮に参籠し、拝殿にて法施を行った時、一瞬眠ってしまい夢の中で子供が杖で鳩を撃ち殺し、その後、頼茂の狩衣の袖を打った。目を覚まし不思議に思った。今朝、八幡宮の庭で死んだ鳩が見つかり、また不思議に思って占いを行った結果、不吉と出る。

 

 

同月二十七日条、「夜になり雪が降り出し二尺ほど積もる。実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参られた。酉の刻(午後六時頃)に御所を出発された。実朝が神宮寺の楼門に入った時、義時は急に真心が乱れ、実朝の御剣役を(源)仲章朝臣に譲り退出され、神宮寺で正気に戻られた後、小町の自邸に帰られた。夜になり神拝の儀式が終わり、しばらくして実朝が退室したところ鶴岡八幡宮別当の阿闍梨公暁が石段の近くに隙を見て近寄り、剣を取りだして実朝を殺害した」とある。数名の法師が伴ったとも言われ、義時と間違えて御剣役に変わった仲章も討ったとされる。公暁が「上宮の砌(みぎり)で別当の阿闍梨公暁が父の敵を討った」と名乗りを上げたと『吾妻鏡』では記載されている。『愚管抄』では名乗りはせず、公卿らが逃げて来るまで鳥居の外に控えていた武士たちは気が付かなかったと記載されている。その後、隋兵が馬で宮司に駆けつけたが公暁の姿はなかった。直ちに雪ノ下の公暁の本坊を襲い、その門弟・悪僧が立てこもり合戦になったが、そこにも公暁の姿はなかった。公暁は実朝の首を持ち後見である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の宅に向かい、そこで食事をするときも首を手放さなかったと言う。使者として弥源太兵衛尉(公暁の乳母子)を三浦義村に遣わし「今、将軍はいなくなった。私こそが関東の寵にふさわしい。速やかに計らうように。」と伝えた。

 

 三浦義村は『吾妻鏡』では先君の恩を忘れていなかったので幾筋もの涙を流し、まったく何も言う事が出来ず、しばらくして「まずは拙宅にお越しください。ひとまずお迎えの兵士を出しましょう」と申した。その後、義村は北条義時に使者を出しこの事を告げた。義時は躊躇せず公暁を誅殺せよと命じた。義村は一族らを呼び集めたが、公暁は武勇に優れているため、簡単には討ち取れないとし、勇散な長尾定景他五名を討手に差し向けた。公暁は義村の使者が遅いため雪の中を一人で鶴岡宮の後方の山を登り義村邸に向かうが、途中で定景と遭遇し討ち手と戦うが定景に討ち取られた。公暁享年二十歳。また、義村邸の塀までたどり着き、乗り越えようとした所で討ち取られたとも言われている。実朝の首は『吾妻鏡』は見つからず、実朝の御鬢(びん)を棺の中に納められたと記されている。『愚管抄』では岡(山)の雪の中から実朝の首が発見されたと記されている。源頼朝以来幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋は実朝の暗殺と公暁の死で幕を下ろした。

 

 公暁を討ち取ったのは長尾定景で、鎌倉氏の庶流であるが、頼朝が東国平定時、長尾為宗、弟定景が降伏した。彼らは岡崎義実の子息佐奈田義忠を討ち取った者である。その後、岡崎義実の預かりになり、当時、その際に仇討を行っても許された。しかし定景らは、その後読経のみの日を送りそれを見た義実は、頼朝に二人の恩赦を願い出て、それを許された。三浦義澄の嫡子義村の家人となった。上杉謙信(長尾景虎)の祖先となる。鎌倉市植木にある九成寺に長尾定景一族の墓標が残されている。

この実朝暗殺は、鎌倉中に衝撃を走らせた。和田合戦で、将軍という権力の重みを知った御家人たち武士は、その後空位となる将軍不在は、不安を呼び起こし、再び秩序が乱れる事を恐れた。 実朝の死は、源頼朝以来、幕府将軍を担って来た河内源氏棟梁の血筋をここで幕を下ろした。

 三浦義村は公暁討伐の功により同年駿河守に任官した。亡き和田義盛が望んでいた任官であり、頼朝死後北条氏のみが担って来た職種であった。義時は和田合戦において命の縮まる思いをし、三浦一族の軍事力への脅威は続き、義時にとって和睦と懐柔の意味であっただろう ―続く