後鳥羽院と実朝の関係は、鎌倉の治安維持を回復し、御家人諸士との主従関係を勤めた事により、再び良好な関係を構築していく。後鳥羽院は、自身の存在と安定への信頼を実朝に対し支援として官位上昇という形で示したと考えられる。義時は実朝の推挙により建保四年年(1217)正月に従五位以下相模守から、従四位以下相模の守へ、そして健保五年には、名目的京官である従四位以下・右京権大夫(右京兆:うけいちょう)に昇進した。
この年六月八日に東大寺の大仏を造立した宋人の陳和御卿が鎌倉に来た。
「東大寺の供養の日に右大将家(源頼朝)が結縁された際、頼朝が対面したいと頻りに命じたが和卿は「あなたは多くの人命を断たれたので、罪業が重く、お目にかかるのには差し障りがあります。」と言い、とうとう拝謁しなかった。しかし今の将軍家(源実朝)は仏の権化(医王山長老)の生まれ変わりであり、御顔を拝むために参る事にしました。」と申した。実朝は八田知重の宅を話強の宿所と定めている。同月十五日に実朝が和僑を御所に召して対面した。和卿は三度拝礼すると大層涙を流した。実朝が和卿の礼に困惑されたところ和卿が申した。
「あなたは前世の昔、宋朝の医王山の長老で、その時に私は門弟となっていました」。
この事は、去る健暦二年六月三日の丑の刻に実朝が眠られていた際、高僧一人が夢の中に現れてそれと同じ内容を告げた。実朝はこの夢の事は誰にも告げず、六年が過ぎて和卿が申した事と合致したため信仰されるばかりであったという。
同年閏六月十四日中原広元が大江姓となった。広元の出自は諸説あるが詳細は不明である。『江氏系譜』では、藤原光能の子息で母の再婚相手の中原弘季の下で養育されたという。『尊卑分脈』の所収「大江系図」には、大江維光を実父、中原広末を養父としている。また『続群書類従』所収の中原系図では中原広末を実父とし、大江維光を養父にしている。『吾妻鏡』では、六月一日に従四位以下仲原朝臣広末には養育の恩を受け受けたが、散位従四位上大江朝臣維光を父と子の関係で後を継ぐ道理に適っており、この数年来、中原氏は優れた人材を数多く輩出しているが大江氏は人材が少なく、速やかに本性に戻り、絶えようとしている大江氏を継ぎたいと姓氏を改める願を出していた。そしてこの日に改姓を許可する綸旨をうけとっている。広元の兄・中原親能は源頼朝と浸しく早くから京を離れ従っており、は寿永二年(1183)十月に義経の軍勢と共に上洛し、よく遍歴元年正月にも頼朝の代官として再度上洛して朝廷及び貴族との交渉を奉行した。その縁で、広元も鎌倉に下り公文所別当となる。頼朝が右大将となった際に公文所から政所に改め、初代別当に就き、朝廷との交渉や幕政に対し実務懸家として多大に貢献した。文治の勅許で守護・地頭を設置したのも広元の献策であったとされる。
建保四年(1216)八月に実朝は、さらに左近衛中将を兼任する。九月になり実朝は右大将に任じられる事を思い、『吾妻鏡』では、義時は実朝がそれに応じた年齢に達しておらず早急な昇進は過分であるため大江広元から実朝に諫めてもらうよう依頼した。中納言職は摂関家に与えられ、頼朝の跡を継いでいる。さしたる勲功もなく昇進することは、「臣下は自分の器量を見極めて官職を受ける」ことが望ましく過分に昇進することは「官打ち」と言われ、自らを滅ぼすと言われた。広元は御所に参り実朝に御子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して、征夷大将軍として徐々に年齢を重ね大将を兼任されるべきです」。と諫めるが、実朝は「諫言の趣旨は誠に感心したが、源氏の正統は自分の代で途絶える。子孫が継承することは決してないだろう。ならば、あくまでも官職を帯びて源氏の家名を挙げたい。」と言われた。実朝は、以前患った疱瘡での高熱が原因かで子息がおらず、また子がおれば、幕府及び御家人達の災いの元凶となることを恐れたのかもしれない。また、その後に自身の起こる災いを感じていたのだろうか。しかし北条義時が、父時政の従五位以下総統の遠江守で右京権大夫北条氏の極官である歴代最高の官職を叙任した事にも関わらず、実朝の昇進について諫言は不可思議である。『吾妻鏡』を読み進めるとこの頃から実朝と義時の関係に翳りが見え始めているようだ。
同年十月二十四日、実朝が前世に住んでいたという医王山に参拝するため、中国に渡る事を思いつき、唐舟を宋人の陳和卿に作るよう命じている。付き添う者六十人が定められ結城朝光が奉行した。北条義時・大江広元が諫めるが、この日に造船の決定があったという。そして翌建保五年四月十七日、和卿が唐舟を作り終え、数百人の人夫が由比浦で船を浮かべるよう午の刻(午後零時頃)から申の刻(午後四時頃)まで力の限り船を引いたが、浮かべる事は出来ず砂浜で朽ちたという。
同年五月に鶴岡別当定暁が死去したため、六月に頼家の子息・公暁が、北条政子の命により鶴岡八幡宮寺の別当として園城寺から下向し鎌倉に着く。十月には、公暁が別当職に補任されてから初めて神拝が行われた。また宿願のため、今日から千日の間、宮寺に参籠を始める。
建保六年(1218)将軍実朝は正月に権大納言に任じられ、二月には左大将を望み使者を京に向けて遣わした。
『吾妻鏡』建保六年(1218)二月四日条に御台所北条政子が上洛し、北条時房が就き従っている。熊野山詣で、この機会に土御門侍従源通行樹朝臣に嫁がせる故稲毛重成の孫娘(年は十六歳、源師季の娘)を伴われた。その事だけが記載され、実朝病気平癒の祈願で熊野詣の為に上洛した。『愚管抄』では、その際に実朝の後継問題について記載されている。後鳥羽院の親王を将軍に据える親王将軍の話が北条正子の熊野詣で京に伺い後鳥羽上皇の乳母の卿局(藤原兼子)と対面していた。「実朝の後継に後鳥羽上皇の皇子を将軍に求めたが、卿局は自身が養育した頼仁親王を推して、二人の間で約束がなされていた」と記述されている。また、実朝は、将軍を親王将軍に譲り、自身は後見としての地位を築こうとしたとされる。幕府と朝廷の協調関係を継続させ、さらに幕府の権威を高めようとしたと考えられるが、そこに北条氏の位置づけや義時に影響する物はなく、この将軍継承問題は政子を中心に義時等の北条氏と大江広元等の考えであったと思われる。『吾妻鏡』でこの件が記載されるのは、承久元年(1219)閏二月十二日条からである。 ―続く