坂東武士と鎌倉幕府 九十七、実朝と義時 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 健暦三年(1213)五月の和田合戦により、将軍実朝は幼少時から仕えてきた和田義盛の死は、将軍としての立場と重責も理解していっただろう。次第に幕政に加わり、裁断を加えていく。その中に将軍実朝の裁断と生粋の坂東武士の面白い出来事があり『吾妻鏡』に記されている。

  

 『吾妻鏡』建暦三年(1213)九月十九日条、日光山別当の法眼(ほうげん)弁覚が使者を進めて申した。

「故畠山重忠の末子である大夫阿闍梨重慶が当山の麓に籠居して牢人を招き集めており、また祈禱に心を尽くしていることがありました。これは謀叛を企てているのに間違いないでしょう」。

源仲兼朝臣が弁覚の使者の申した言葉を御前で披露した。長沼宗政がその場に祇候していたので、重慶を生け捕る様によくよく命じた。そこで宗政は帰宅せず、家子一人と雑色男八人を連れ、御所方下野国に出発した。これを聞いた郎従らも急ぎ走り向かい、鎌倉中が少し騒動したという。

 

 同月二十六日条、夕暮れに長沼宗政が下野国から鎌倉に到着し、重慶の首を斬って自参したと申した。将軍実朝が仲兼朝臣を通じて、

「畠山重忠は元々罪なくして誅殺された。その末子の法師がたとえ陰謀をめぐらしたとしても、何事があろうか。命に従い、まずその身を生け捕りにして連れて参上し、陰謀の如何によって処分すべきところ、誅殺するというのは、軽はずみな事であり、罪業の原因である。」と仰ってたいそう嘆かれたという。そこで宗政は御不興を蒙った。しかし宗政は目を怒らせて、仲兼に誓って言った。

「その法師の反逆の企ては疑いようがありませんでした。また生け捕るには容易でしたが、直ちに連れて参上したならば、女性や尼らの申請に従って、きっと赦免されるであろうと、あらかじめ推察していたので、この様に誅罰を加えたのです。こんなことでは今後誰が忠節を致しましょうか。この事は将軍家(実朝)の御過失です。そもそも右大将家(源頼朝)の時代に、恩賞を手厚くすると頻りに厳命を受けたものの、宗政は受けませんでした。ただ望むところは、御引目(ひきめ:響の略で、音を出す鏑矢の一種目)を給わって、海道十五カ国中において世の無礼を糺したいと申し上げたところ右大将家は武備を重んじられたために、忝く(かたじけなく)も一の御引目を給わって、今まで我があばら家の重宝としておりました。当代は(実朝)は歌や蹴鞠を業として、武芸は廃れているようです。女性を重んじて、勇士はいらないかのようです。また没収の地は、勲功の者達に充てがわれず、その多くは女房らが賜っています、例えば、榛や重朝の医療は五条局が賜って、中山重政の跡は下総局が賜りました」。この他の暴言は数え切れなかった。仲兼は従弟ともいわずに座を発ち、宗政もまた退室した。とある。

 

 長沼宗政は藤原流北家秀郷流の小山氏の祖・小山正光の次男で長沼氏の初代である。頼朝挙兵以来の御家人として勲功を挙げてきた。この記載は、当時の坂東武士の実朝、幕府への批判と真意であった考え、この暴言で出仕を止められている。翌閏九月十六日兄の小山朝政の申請により、宗政は実朝の御不興を許され出仕したという。坂東武士に対し実朝の将軍としての器を窺える記載である。また将軍実朝の存在が鎌倉の安定を築く北条義時の執権体制においての幕府運営に必要であった。しかし、その安定の中心は北条執権体制であり、一時的に安定を計りながら有力御家人等の排除が続いていく。

 同年十一月二十三日に京極寺従三位藤原定家が相伝の私本『万葉集』を実朝に送られ、より一層、和歌に傾倒し、京に憧憬する。そして後鳥羽院に対し恭順していった。同年十二月三日、実朝は寿福寺に参り和田義盛以下の使者の成仏のため仏事を修された。この年の同月六日に建暦三年を改めて建保元年となっている。

 建保二年十一月、京において和田義盛・土屋義清の残党等が、故頼家の子・永実を擁立して謀叛を企てるが、在京していた中原広元の家人これを襲う。栄実はすぐに自害して一味は逃亡した。三代将軍源実朝と幕府執権北条義時との関係は、その後も従来通り良好な関係であり、建保四年(1216)四年、将軍実朝も二十五歳になり、執権北条義時は五十四歳になっていた。

 

 同年四月二十二日付の将軍家政所下文に政所別当を五人から北条義時、中原広元、北条時房、中原師俊、二階堂行光、源頼広、源仲章、源頼茂、大内惟信の九人が別当署判の位置に列挙されている。政所別当は、承元三年(1209)の開設以来、義時、時房、源親広が就いていたが、後に仲原師俊、仲原仲業、二階堂行光が加わり、この度に至った。実朝の側近や源氏一門を加える事で将軍権力の拠点の政所に実朝の意向を反映させ、将軍親裁の強化を図る意図があったとしている。しかし、仲章、惟信、頼茂が在京することが多く、彼らの将軍家政所下文は五通しか存在しない事から、将軍実朝と執権義時が協調するのではなく、牽制しあう関係にあったとも考えられている。要するに義時の執権としての政務に異を称えさせる事の無いように源氏諸将を組み入れたと言わざるを得ない。また、源氏一門の惟信、頼茂、大学頭(だいがくのかみ)の仲章は後鳥羽院に近く、朝廷に対し和田合戦における鎌倉の治安の不信を払拭する狙いがあったとも考えられ、後鳥羽院の意向の意向であったかも入れない。

 朝廷と幕府との関係は、頼朝の挙兵後、「寿永二年十月宣旨」、「文治の勅許」などにより、朝廷は幕府の軍事・警察権力を背景に治安と安定した所領・荘園の徴税を行なわせ、幕府は朝廷からの権威と将軍推挙により御家人諸士に官位・叙任を与える事で御家人の統率を行う。そして少なくとも武士の独立性を維持することが最大の目的とした関係であった。幕府は、後鳥羽院の顔色を見たとも考えられる。このように将軍実朝、執権北条義時、そして後鳥羽院との牽制が始まって行く。 ―続く

 

(写真:ウィキペディアより引用 源実朝像、後鳥羽院像)