坂東武士と鎌倉幕府 百一、後鳥羽上皇 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 後鳥羽院は、高倉天皇の第四皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子である。後白河院の孫で平家と共に壇ノ浦で身を投じた安徳天皇の異母弟である。勅命で『新古今和歌集』の編纂を命じ、和歌や蹴鞠、武術、そして刀剣造りまで興味を持つ文武両道、多芸多才の院であった。それは後白河院により後鳥羽帝が、「神器無き即位」を行った事に由来すると言われる。

 

 壇ノ浦の戦いで剣璽(けんじ)が海中に没して回収されることが出来ず、安徳天皇が退位しないままに元暦元年(1184)七月二十八日に四歳で後鳥羽帝は「神器無き即位」を行った。承元四年(1210)順徳天皇践祚(せんそ)に際しては、三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣とみなして用いられている。文治元年(1187)九月二十七日に佐伯景弘の宝剣探査失敗の報告を受け、宝剣探査は事実上断念された。本来の践祚による即位ではなく、「神器無き即位」を行った後鳥羽帝は、中傷の中、劣等的感と屈辱感の中、自身の正統性を確保するために、その後の行動が反映されたと見られる。幼少期からの屈辱感に対して、あらゆる武芸や和歌などの文芸にも取り組み卓越した才能を開花させていた。また、後鳥羽院は伝統的な宮中での慣例行事などを復興させ、王朝の権威を上げ、自身が真の天皇であることを周囲に認めさせるよう行ったとされる。しかし、後鳥羽院の治世を批判する際に「神器無き即位」が、不徳を結び付けられることもあった。

 

 藤原定家の『明月記』建保元年四月二十九日条に後鳥羽上皇と順徳天皇が度を越した蹴鞠好きを批判した際に神器の不在に原因を求め近代においても武士の台頭の原因として、後鳥羽院が「虚器」を擁していたことに求める意見が記されている(池田晃淵「承久の乱の起因に就いて」『史学雑誌』第七巻第二号、1896年)。その屈辱感を克服するために強力な王権の存在を内外に対する強硬的な政治姿勢は、承久の乱の要因になったともされる。また、従来からの院御所の北面を下に近衛として詰め、上皇の身辺を警護する北面武士に加えて西面武士を設置して、軍事力の強化を図った。その財源としては、王家領荘園群の一つ長講堂領と八条院内親王の所領を起源とする八条院領など諸国に置かれた膨大な荘園群であった。

 

 この時期は、朝廷と幕府の協調関係が継続しており、東国武士を中心として樹立した鎌倉幕府の創立後、東国において守護、地頭を置き、権力を掌握しているが、西国においては、まだ朝廷の権力が強く残り、多くの荘園が残っていた。平家に加担した貴族、武士の所領に関しては地頭の設置は認められたが、公領、貴族・寺社の荘園には設置することが出来ず、幕府と朝廷の二元政治が続いていた。源頼朝が幕府を樹立させた目的としては、東国の武士の独立を果たすものではなく、天皇による治世を掲げながら東国武士を束ね、軍事・警察権の掌握と各国に守護・地頭を設置し、後に朝廷の権威の下に頼朝による御家人の統治と、武士の役割を認めさせることであったと考える。武士は御家人として将軍(武士の棟梁)の臣下と位置付け、頼朝を頂点に東国武士の自主独立権に近いものを形成した事であった。東国の所領・荘園などは幕府地頭が置かれ、地頭の取り分を上げるため、荘園・国衙領地。所領の農業生産率は上がっており、この時期は、年貢・徴税が確かに行われていた。幕府は、年貢・徴税等の未納の地頭において、解任権を持ち地頭を解任させることが出来、幕府と朝廷との役割分担が正常であった事を示す。

 

 平安中期の荘園は、税の免除を受けた私領(免田)が集まった荘園が増え、領主が開発に招き寄せた田堵(田堵)らにより耕作されていた。国司の裁量で免田を認可し、耕作した田堵(たと)に荘園を国免荘として荘園領主と国司の両方に納税していく。国司は四年の任期で交代し、土地所有の認定についての権限を中央から移譲され、任国の公領・私領を国図により管理する。しかし、交代した国司は、徴税実績を上げるため前任の国司が行った決定を無効にしていた。廃止される荘園・免田も多かったが、賄賂を取って継続する事もあったが、任期が迫るとさらに賄賂を取り、免田・荘園の認可を乱発するという繰り返しの連鎖することになる。また、国司が交代しても中央政府から税の免除を示す官省符が与えたれた特別な荘園もあった。この官省符により認められた官物の免除を不輸の権といい、新田開発により課税対象とするか調査する国司の検田も免れる不入の権も発生する。国司は私領の開発者に税を軽減して後背地の開発を即し徴税実績を上げるが。しかし既耕地の耕作を放棄して田堵達が荒廃地の開発に集中する恐れもあった。実際に在地開発領主が耕作者を確保できず経営が崩壊した例もある。未分が低い私営田領主・豪族は土地所有の安定化を図るため私領を貴族や寺社に寄進して、農地の荘官・管理者として生産と開墾を行った。貴族や寺社の本家・領家は寄進された土地に対し、その土地に慣れ親しんだ寄進者を荘官に当てることで、安定的に年貢を納めさせることを望んだが、荘官の任命権は領家・本家が持つため、常に顔色を見なければならなかった。

 

 平安後期には、領域型荘園が拡大する。領域型荘園は、貴族・社寺の荘園領主の領家が不輸・不入の荘園が増え、貴族や寺社が従来の農地と開墾予定地を東西南北に杭で境界を示し、領域型荘園が拡大する。領域型荘園では、国司が記入できない不入権が警察、裁判権にまで拡大し、在地武士達が荒野を開墾できずに不満を抱きく。そこに平家の荘園が拡大し、東国武士が東国の自主独立的な構想から源頼朝を立てて挙兵に従ったのである。鎌倉幕府の創立により治安の安定は荘園制度の崩壊を免れることになった。また、鎌倉初期・中期においては、安定と開墾地の拡大及び法令化により平安期の農業生産量を上回る。貴族、寺社の荘園の本家・領家は繁栄を見る。

 

 後鳥羽上皇は、東国・坂東武士の土地に対する執着と、搾取から彼らを守る連帯の象徴である幕府の本質を見定める事が出来なかった。鎌倉幕府後期には、元寇の襲来により幕政が不安定になると、悪党の地頭の年貢・徴税の未納などが発生し、地頭と荘園領主や朝廷貴族が紛争を起こすようになる。したがって、後鳥羽院、朝廷にとって鎌倉幕府に権威と権限を与え治安維持により安定した徴税・年貢の収納を行う協調関係であることが必要であった。しかし、実朝の暗殺により、後鳥羽院は、実朝を擁護できなかった北条義時と、今後の治安維持に対して不信感を抱いたのである。また、鎌倉幕府執権の北条義時においては、後鳥羽院の親王将軍の拒否により将軍後継の誤算が生じた。この鎌倉の不安定な時期に後鳥羽院と北条義時の対立が激化してゆくことになる。後鳥羽院は、幕府の実権を握る北条義時の誅伐により、自らを頂点に幕府の実権を掌握しようと試みる。ここに承久の乱が始まり、鎌倉幕府の勝利と共に、前代未聞の、後鳥羽・土御門・順徳上皇が配流されるという結末に至った。 ―続く