坂東武士と鎌倉幕府 八十九、三代将軍実朝と北条時政の謀略 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 三代将軍実朝は、建久三年八月九日に源頼朝の六子として生まれた。頼朝が征夷大将軍を叙任された年である。母は政子で、大姫、頼家、三幡乙姫、実朝と頼朝・政子にとって末子である。幼名は千幡、乳母に政子の妹・阿波局、介添・養育係として大弐局(甲斐源氏の加賀美遠光の娘)が担った。

   

(写真:ウィキペディアより引用 源実朝像(『國文学名家肖像集』収録)、世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも)

 建仁三年(1203)九月七日、比企の乱後、病に臥す弐代将軍・頼家が在命中にもかかわらず、今日に使者が贈られ、頼家の死去による継承を願い、千幡が従五位下征夷大将軍に任じられる。同月二十九日に前将軍の源頼家が伊豆国修善寺に下向させられ、十月八日、時政の名越の邸宅で十二歳の実朝は元服し、名を実朝と改め、翌日将軍家(源実朝)の政所始が行われた。同月二十四日、父頼朝が務めた、右近衛佐に任じられる。そして翌元久元年(1204)七月十八日、兄・頼家は北条義時の刺客により暗殺され、名実とも実朝を阻むものは無くなった。十二月、京の坊門信清卿の娘・西八条禅尼(信子とされるが実際には伝わっていない。尊卑分脈から信清の妹・信子と混同されたと考えられる)を正室に迎える。時政等は足利義兼の娘を実朝の妻に迎えようと画策したが、実朝自身が受け入れず、京の文化を好み、すでに自身で使者を選び京に発して正室を求めたと言われる。また、兄・頼家と比企の乱を見留めた実朝は、御家人から妻を娶る事が紛争を生む原因として拒んだとも考えられる。参代将軍・実朝の幕政は当初、重臣達が担っていたが、故頼朝の御家人等に下された御書を見て写し、頼朝の御成敗の意趣を知ろうとし、勤勉だった様子が「吾妻鏡」に残されている。後には、よく学ぶ実朝は次第に幕政に関与するようになる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠像)

 北条時政は、武蔵国の留守居所、武士団の惣領の畠山重忠を娘婿(政子・義時と同腹の娘とされる)としていた。北条氏の軍事勢力の拡大のための婚姻であったと考えられる。時政は、三浦、和田、八田、畠山の軍勢により武蔵国の比企一族を一掃した。比企氏の縁者・児玉党等の所領において介入して戦後処理を行い、武蔵国務を掌握するようになる。しかし、比企郡に隣接する男衾(おぶすま)郡を本拠とする秩父一族の畠山重忠の勢力は時政にとって脅威になって行く。同じく北条時政の娘婿(時政と牧御方との娘とされる)である武蔵守に就いた平賀朝雅と武蔵国惣追補使である畠山重忠も武蔵国での対立もあったと考えられる。

畠山重忠は「坂東武士の鑑」と称されるほど人望もあり、事が起これば北関東の武士等は重忠に与するだけの人物である。頼朝挙兵により石橋山の合戦では平家に与し、母方の祖父、三浦義明を衣笠山で討っている。しかし頼朝が下総から常陸国に入る際に参陣して忠誠を誓った。頼朝は三浦義澄に父の敵である忠重の件を了承させ、その後、治承・寿永の乱では常に先陣を務め多大な功績をあげた。また、頼朝に信頼を受け、鎌倉入りや奥州合戦には頼朝軍の先陣を務め、頼朝の上洛でも先陣を賜った。静御前の義経を思う「静の舞」に重忠は銅拍子を討ち器楽にも長けていた。『吾妻鏡』においても頼朝生前には良く記載されており、永福寺の造営に関する力仕事を頼朝は良く感心していた。重忠は鎌倉幕府においては有力な御家人の一人であり、『吾妻鏡』、『承久記』において建久(1199)正月、頼朝死去の際に頼朝から子孫を守護するように遺言を受けたとされる。頼朝死後、十三人の評定衆には加わらず、源家の家臣として自らをわきまえていた。また、時政等により、挙兵時からの臣従ではなく、古参の御家人の既得権益を守るために排除されたとも考えられる。北条時政は武蔵及び北関東の勇士である畠山重忠が各御家人等の信頼の積重と勢力の拡大を恐れていたとも考える。

 

 元久元年十月に三代将軍・実朝が京に正室を迎える使者として時政と牧の方との間に生まれた北条政範、畠山重保等が選ばれて上洛する。重保は畠山重忠の次男で母を時政の娘とされ、嫡子の扱いを受けていたとされる。そして時政の孫にあたる。上洛の途中で政範が病気になり、十一月三日に京に着いた後の同月五日に急死した。享年十六歳であった。この急死により京都守護・平賀朝雅が随行していた畠山重保に病気でありながら京まで来るよりも途中療養させるべきであったと叱責する。重保も、政範に療養を薦めたが、政範は、実朝から選ばれた使者としての責務を全うするため京都に急いだと説明した。この事が、朝雅と重保の争論になり、遺恨を残すことになり、そして畠山重忠の乱と牧氏事件へと繋がっていく。これは乱と言うより、比企の乱同様、北条家の謀略による虐殺であった。

 元久二年(1205)六月二十一日、北条時政の後妻・牧御方の娘婿になった京都守護の平賀朝雅と重保との遺恨により、朝雅が牧の方に讒言(ざんげん)し、時政は子息の義時、時房を呼び内々に謀議を行った。

 

 『吾妻鏡』では、元久二年(1205)六月二十一日条、牧御方は(平賀)朝雅(昨年の畠山重保との争論)の讒言を受けてご立腹であったので(畠山)重忠親子を誅殺しようと、内々に謀議があった。北条時政は子息、義時、時房を名越の自邸に呼び内々に畠山重忠の謀反の謀議が行われた。重忠は治承四年以来ひたすら忠節を尽くして来たので、右大将(源頼朝)はその志を鑑みられて、(頼朝の)子孫を護るよう、心を込めた御言葉を遺されたものです。とりわけ金吾将軍(源頼家)に仕えていながら、(比企)能員との合戦の時は味方に参り、忠節を尽くしました。これはすべて父子(重忠は時政の娘婿)。の礼を重んじためです。そうしたところ、今どのような憤りが在って叛逆を企てるのでしょうか。もし度重なる勲功を心にとめず、軽率に誅殺すれば、きっと後悔するでしょう。罪をおかしたか否か真偽を糺(ただ)した後に処置したとしても、遅くはないでしょう」。当初、義時・時房は、重忠の謀反の審議を行うべきで、謀殺には反対であった。時政は再び言葉を発することなく席を立ち、義時もまた退室した。追って備前の守(大岡)と記親が牧の御方の使者として、義時邸に参り、「重忠の謀反の事は、すでに露見しています。そこで君のため余の為に事情を密かに時政に伝えたところ、今、あなたが申されたことは、ただ重忠に代わり、その悪事を赦そうとするものです。これは継母を憎んで、私を讒言人とされようとしているのでしょうか」。義時は、「この上はお考えに従います。」と申されたという。と記される。

 

 『吾妻鏡』では当初、北条義時は重忠の謀反の審議を行うべきで、謀殺には反対であったとされる。牧の方の強い訴求により義時は、それ以上逆らうことは出来なかった。義時は、この頃までは江馬姓(北条氏の分家名)を称し、北条氏の嫡男として処遇されていなかったとされ、時政と牧の方のとの間に亡くなった政範がおり、牧の方が嫡男として処遇することを望んだとされる。『吾妻鏡』では義時が前年の元久元年二月二十五日条まで、江間四郎義時と記載され、翌年の元久二年六月二十一日条に「相州」と義時の名を記載している。この時は、すでに北条を継ぐ者は義時の他には時房しかおらず、時政・政子・義時の北条氏の考えであった可能性も考えられ、後に北条氏により編纂された『吾妻鏡』の曲筆であったとも考えられる。

時政は、娘婿であった稲毛重貞(妻は義時の同腹妹で、亡くなり橋供養を行った際頼朝も参列し、その帰りに落馬したため亡くなったとされる)を使い、重貞が御所に上がり、重忠謀反を訴え十四歳になる将軍実朝が重忠討伐を命じたとされる。しかし、私見であるが、ここでも後見としての北条政子、時政、義時の指示によるものとも考えられる。 ―続く