細川重雄氏の『執権』「北条氏と鎌倉幕府」の冒頭に「執権」とは、「鎌倉北条氏が独占・世襲した鎌倉幕府の役職。幕府の主人公である将軍(征夷大将軍)の後見役、政務代官とされ、幕府の政務を総覧した。鎌倉時代中期以降、二人制となり事績の執権は連署と呼ばれた。」と記述されている。
職名として「執権」が最初に用いられたのは、治暦五年(1069)に後三条天皇が荘園整理令を発布し記録荘園券契所を設置した記録所の勾当(別当)の別称であったと考えられている。文献上確認できるのは文治二年(1186)以降であり、職事(しきじ:律令制における特定の官人集団を指して用いた呼称)の蔵人(律令の令に規定のない新設の官職の両下官の一つ)の筆頭を執権職事と称した。また、後鳥羽院が院庁で別当の内で責任者として執権一命を任じ、院中雑務を葉室光親(はむろみちちか)に任じている。その後、常設化され、院執権は院司の筆頭として伝奏や評定衆を兼務し、院庁の運営及び評定の議事進行を担当しており、院執権は江戸末期の光格天皇の時代まで存続した。鎌倉幕府は、源頼朝が東国御家人の武士の棟梁として平家追討の功績により公卿に列したことからはじまる。幕府は鎌倉殿としての頼朝の家政機関から始まったもので、政所(まんどころ)が政務の中核を担い、その政所の家司の筆頭・責任者が別当の職務として挙げられている。初代別当には、中原(大江)広元が任じられた。
北条時政は、娘・政子が源頼朝の妻となり、二代将軍になる頼家を産んでいるため、頼朝の舅、頼家の祖父として外祖父・外戚となる。頼朝生前時には、甲斐源氏の主流・武田信義の失脚で、駿河守護を与えられたとされ、頼朝の命で文治の勅許を得るため千騎の兵を伴い上洛し、勅許を得る事に成功した。その手腕において卓越した者ととらえることが出来、その後に京都守護に就いている。後白河院から信任を受け、七カ国地頭、惣追補使(そうついほし:一国の警察・軍事的役割を担う官職)を任じられ、下向する際に七カ国地頭は辞任している。また、伊豆、駿河、遠見国の守護に任じられるが、官位の叙任は特別に源頼朝から舅・外戚としての厚遇を与えられていない。頼朝の死後、二代将軍として頼朝の嫡子・頼家が就くと頼家の独断を抑えるために裁量権の停止を行い、十三人の合議制が敷かれる。この合議制は頼家の悪政に対する手段とされるが、しかし十三人の合議制による裁量が行われた事は、ほとんど記述に無く、鎌倉幕府の重臣の主要御家人としての価値と家格を他の御家人と区別させ、既得権益を守るために作られたと考えるべきである。そして十三人の合議制に名を連ねているが、その合議制の首謀者は時政と考えられ、子息・義時もその中に加わっている。北条氏の権限をさらに大きくしたことは間違いない。また、北条時政は、朝廷との折衝において、十八歳の頼家を補佐する建前で顕示されたとも考えられるがが、この十三人が政権内で特権的な地固めになった事は明確である。
(写真:鎌倉市妙本寺)
北条時政は、比企の乱により比企氏を滅亡させ、頼家の弟で娘の阿波局が乳母を勤めた十二歳の実朝を三代将軍に擁立し、自邸の名越邸に迎えて実権を握った。この時点での時政は御家人・家司筆頭であり、後に十二歳の三代将軍実朝を擁立し、実権を握った。建久三年(1203)九月に十六日に実朝に代わり時政単独で署名する「関東下知状」(鎌倉遺文1379)が発給され御家人の所領安堵等の政務を行っている。十月九日には、大江広元と共に政所別当に就任し、事実上執権の地位についた。
広元の権限を抑えて幕府、北条氏の専制を確立したとされる。このような背景で、この時期に北条時政が鎌倉幕府執権に就いたとされている。しかし、東国・坂東の地においては、北条氏は、定かではないが伊勢平氏の祖・平貞盛流の平(鎌倉)直方の庶流とされ、家格は元々低く、軍事勢力も大きくは無かった。
(写真:ウィキペディアより畠山重忠公像、横浜市畠山重忠公碑)
東国・坂東では、従来から軍事的優勢を示す、坂東八平氏の房総平氏の千葉氏、秩父平氏の畠山氏、相模平氏の三浦氏の存在は大きかった。相模の三浦氏と伊豆の北条氏は伊藤祐親の娘を妻としたため縁者の関係である。頼朝挙兵時から両者は協力関係であり、時政は軍事勢力拡大のために武蔵国の惣領の留守所の畠山重忠、また武蔵守・平賀朝雅を婿として軍事基盤を固めてゆく。そして時政は、比企の乱に勝利すると朝雅を京都守護職に就かせ、比企氏の縁者・児玉党等の所領において介入して戦後処理を行い、武蔵国務を掌握するようになる。この事で時政と重忠の関係が悪化していく。北条氏は畠山重忠の乱で重忠を討ち取り、武蔵国を手中に収めた。後の北条執権体制が確立していく中、相模国と武蔵国は執権・連署が国守を占めるようになる。また、北条氏の執権体制が確立する途上において、頼朝の御家人から幕府御家人として変遷し、次々に北条氏により謀殺が行われて行く。そして、東国・坂東武士が理想とした朝廷からの独立化は、北条執権体制の臣従による安定化にすり替わって行った。
北条義時は、後の和田合戦により、侍所別当の和田義盛を討ったことで、御家人の秩序と統括を行う侍所別当に就き、政所の家政機関の統括責任者としての別当の立場の両者を併せ持った職務が執権として変遷し、執権体制を確立したとも考えられる。 ―続く