坂東武士と鎌倉幕府 八十七、二代将軍頼家暗殺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 建仁三年(1203)九月、北条時政らは頼家が危篤状態であり、存命中にもかかわらず朝廷に「九月一日に頼家が病死したため、頼朝次子の千幡が跡を継いだ旨」との報告を出す。そして、九月七日の早朝の都に届いている。そして、千幡の征夷大将軍の任官を要請した。藤原定家の日記『明月記』や他の京都側の記録等で複数確認され、また吾妻鏡にも記載されている。これらの事から比企能員の叛反ではなく、一幡が頼家から全て譲与されることを恐れ自身の権力への執着により北条時政の計略だったと考えられる。千幡、後の実朝は、乳母が時政の娘・阿波局であり、政子の妹であった。阿波局の夫が阿野全成で頼家から謀叛の咎で誅殺され、子の頼全も連座して誅殺されている。自身も捕縛の対象となったが姉・政子により助けられ無罪となった。これらの背景から頼家対北条の確執がさらに大きくなり、北条の権勢を保つため実朝を擁立する。

 

 二代将軍頼家が病床に臥せ、比企能員の乱を『愚管抄』で記述が残された。事件の日時が『吾妻鏡』と交錯しており疑問点を残すが、都の在住の慈円の聞き入れた論評は、客観性を有している。能員誅殺を『愚管抄』によると、「中原広元の屋敷で病状が悪くなる頼家を監視させた。頼家の子一幡御前は、例によって源氏の家督のいる家にいて威儀をととのえていたが、そこにも人を送り殺そうとしたので、母(若狭局)が少門から出て脱失した。頼家は、後は全て一幡に譲ろうとし、頼家は八月の晦日に出家する。一幡御前の世になったと考え、よもやこのような事態になろうとは思いもよらなかった」。

北条時政は、比企能員の権勢が高まるのを恐れて能員を呼び出し誅殺したとされている。これらの事から私見であるが、北条正子は父の時政邸に能員謀殺の前、広元に頼家の譲与の意向を聞きだし、能員誅殺を決めた首謀者ではないかと考える。頼朝死後の尼御台政子の存在と権勢は大きかったと考えられ、広元も後の幕政のことを考えると政子には伝える事が有益と考えたのだろう。また、政子が頼家と能員の話を聞いたのが始まりで、終結は政子の追討の命であった。比企の能員の謀殺は、北条時政、政子、義時による陰謀で北条を守るための行動であったと考えられないだろうか。

 

 『吾妻鏡』建仁三年九月五日条、「将軍家の御病気が少し回復し、かろうじて命を長らえられた。しかし若君一幡幷(ならび)に比企能員が滅亡した事を聞かされると、その憂いと憤りに堪えきれず、遠州・北条時政を誅殺せよと、密かに和田義盛及び新田忠常に命じられた。堀藤次郎親家が御使者として御書を携え向かったが、義盛は考えをめぐらしてその御書を時政に献上した。そのため時政は親家を捕らえて工藤行光に誅殺させた。頼家は益々ご心労になったという」。

同月六日条、「夕方になり、北条時政は新田忠常を名越の御邸宅に呼ばれた。これは比企能員の恩賞を与えるためであった。しかし、忠常は邸宅に入った後、日暮れが近づいても、一向に退室しなかった。忠常の舎人(とねり)の男はこれを怪しみ、忠常の乗馬を引いて屋敷に帰り、事情を弟の五郎と六郎(忠時)に告げた。そこで、時政を追討するようにと将軍家(頼家)が忠常に相談されたことが時政に漏れ聞こえたので、すでに処断されたのだろうかと、その者たちは推量を加え、すぐにもその憤りを晴らすため、北条義時へ押しかけようとした。義時は丁度その時、幕下将軍頼朝ゆかりの地で現在の尼御代雅子がいる大御所に祇候されていた。そこで五郎をはじめとする者たちが走り着て矢を放ち、義時は御家人らに防御させた。五郎は波多野忠綱に首を獲られ、忠時は台所に火を放ち自害した。その煙を見て、御家人らが競い集まった。また忠常は名越の時政邸を出た。私邸に帰る時、途中でこの騒ぎを聞き、「命を捨てる。」と言って御所に参上したところ、加藤景廉に誅殺された」。

 

 同月七日条、「亥の刻(午後十時頃)に将軍家(頼家)が出家された。御病気の上に、家門を治められ事が全てに危ういので、尼御台所政子が計らい命じられたため、心ならずもこのようになった」。

同月十日条、「千幡君を推挙して、将軍に立て申されるための沙汰があった。若君千幡は今日、尼御代政子の下から北条時政の御邸宅に移られた。御輿を用いられ、女房阿波局も同じ輿で参った。北条義時と三浦義村が御輿寄(御輿を寄せて乗り降りするために玄関口に張り出して作られた構え)に控えた。今日、諸御家人等は所領を元通り知行するよう、多く時政の御文書を下された。これは世の中の混乱を心配してのことである」。

同月十五日条、「阿波局が御台所政子の下に参り、申した。「若君は時政の御邸宅にいらっしゃいます。然るべきことでしょうか、よくよく牧御方の様子を見ますと、何かに付けて笑顔の中に害心が含まれており、守役として信頼できません。きっとよくない事が起きるでしょう」。「そのことはかねて考えにあった事です。すぐに(千幡)を迎え取り申し上げましょう」。

尼御台政子は、返答され、すぐに北条時政・三浦義村・結城朝光を派遣し、千幡君を迎え取られた。時政は事情を知らず狼狽し、尼御台に仕える女房・駿河局を介して陳謝されたところ、成人するまで政子と同署で養育すると返事されたという」。後の牧氏の乱につじつまを合わせた様な記載である。

 

 一人残った頼家は病状が回復し、『愚管抄』では、「九月二日、頼家は一幡御前がこのようにして攻められたと聞き「これは何とした事か」と言って傍にある太刀を取ってふっと立ち上がったが病み上がりの体では本当にどうする事も出来なかった。こんな頼家を母の尼もすがりついて捕らえ、そのまま護衛を付けて修善寺に幽閉したのであった。悲しい事である。」

 『吾妻鏡』建仁三年九月二十一日条、「北条時政・大官令(中原広元)が評議を行い、入道前将軍(源頼家)は鎌倉中におられるべきでは無いと決定されたという」。

 同月二十九日前将軍佐の左金吾禅室(源頼家)が伊豆国修善寺に下向された。巳の刻(午前十時頃)に出発された。先人の随兵百騎、次に女騎(めき:騎馬武者姿の女性)十五騎、次に御輿三張、次に小舎童(こどねりわら:雑用を務める子供)一人、後陣の随兵は二百騎であった」。鎌倉から伊豆の修禅寺まで大層な警護がおこなわれたのは、比企の残党らの奪取を警戒した事であろう。これにより北条時政、政子、義時は幕府の実権を掌握し、北条執権体制が始まる。

 

 同年十月八日、千幡は十二歳で元服し実朝と名を称した。理髪は時政、加冠は平賀義信であった。『吾妻鏡』十一月六日に、政子の下に頼家からの書状が届き、「深山に隠棲して、改めて退屈で耐えられないため日頃召し使っていた近習の参入を許してほしい」と書きよこしている。時政、政子、義時は幕政が揺れる中、温情は適当ではないと審議し、今後、書状を交わすことも禁じた。その任に命じられたのが三浦義村であった。義村が北条の下知を頼家に伝えた事とは、頼家や他の御家人に北条執権体制が固まった事を知らせる効果があった。

同月七日条、「入道左金吾(源頼家)の近習の中野能成以下を縁流に処すよう決定があったという」。

同月十日条、「三浦義村が伊豆国より鎌倉に帰参し、頼家の御閉居の様子を詳しく申した。尼御代政子はたいそう悲しまれたという」。

  

『吾妻鏡』元久元年七月十九日条、「酉の刻に伊豆国から飛脚が鎌倉に到着した。「昨日十八日に左金吾禅閤(源頼家)が東国の修禅寺で亡くなられました。」と申したという」。頼家の死について、ただ飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すのみであった。享年二十三歳。『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば義時の送った刺客とある。古活字本『承久記』や『梅松論』では時政の送った刺客としている。

『愚管抄』巻六では、「元久元年(1204)七月十八日修善寺にてまた頼家入道を刺殺して蹴り、とみに、えとりつめざりければ、頸に緒を付け、ふぐりを取りなどして、殺してけりと聞えき(修善寺において頼家入道を刺殺した。急に攻めつけることが出来なかったので、首に紐を付け、ふぐり(陰嚢)を切ったりして殺したと伝えられた)」と。南北朝期の史書『保暦間記』では、「修善寺の浴室の内にて討ち奉り」と、入浴中に殺害されたとしている。頼家の祖父・源義朝も平治の乱後、坂東への逃走の途中、同じく入浴中に殺され、そして頼家の息子・公暁が実朝を殺す。是も因果と言うべきか。 ―続