『愚管抄』巻第六において、比企の乱の記述が記されている。
「建仁三年九月の頃、頼家が重い病気にかかりもう死にそうになったのである。頼家は比企判官能員という者の娘に思いをかけて男子を産ませていた。一幡御前と呼ばれ六歳になるその長男に、源家のすべてを相続させようとした。実はそうする事によって実権を握ろうとしているのを聞いた北条時政は頼家の弟千幡(後の三代将軍源実朝)御前は頼朝も可愛がっていた子であるからその千幡御前こそが源家を継ぐべき者だと」
『吾妻鏡』建仁三年(1203)九月二日条、北条時政は、中原(大江)広元の邸を出て自邸に戻り、比企能員の誅殺の計略を議論した。その夜に再び、広元を屋敷に呼んだ。広元は逡巡する様子はあったが気の進まないままで向かおうとすると、家人が多く付き従おうとした。広元は考えがあると言い、家人を押し留めて飯富(おふ)宗長だけを伴った。その途中、広元は密かに宗長に語った。
「世の中の様子は、まことに恐れるべきことである。重大事については、今朝こまごまと協議がつめられた。しかし再び時政に呼ばれることは、まことに理解しがたい。もし不慮の事があれば、お前がまず私を手にかけよ」。
広元等は時政の名越殿に着き、時政との対面の間、宗長は広元の背後を離れなかったという。広元は、午の刻(正午頃)、時政邸を後にした。『吾妻鏡』に記されていないが、その場に北条正子、北条義時が居たと考えられる。
時政は、この名越の邸宅で造っていた薬師如来像を供養し、葉丞律師(栄西)を導師として政子も結縁のために居たという。時政は、能員の下に使いを出した。
「宿願により仏像供養の儀式を行います。おいでになり聴聞されますように。そしてまた、この機会に種々の事柄を話しましょう」。
能員は使いの者に申した。
「早々に参ります」。
使者が退室した後、能員の子息・親類等が諫めて言った。
「このところ我々に計略がないわけではございません。あるいは風聞があって、特使の派遣を受けたのではないでしょうか。たやすく時政の下へ出向かれてはなりません。たとえ参られたとしても、家司・郎従らに甲冑を付け弓矢を所持させ、御連れ下さい」。
能員は、すかさず答えた。
「そのような出で立ちは、全く警護の備ではなく、間違って人の疑いを引き起こす元である。今、能員がなお甲冑を付けた兵士を引き連れたならば、鎌倉中の諸人は皆うろたえ騒ぐだろう。急いで参ろう」。
能員は、「仏事結縁のため、また譲与などの事について相談されたいのだろう」と聞き入れず、平礼烏帽子・白い水干・葛袴を着て黒馬に乗り、郎党二人と雑色五人を連れ出かけた。
(写真:鎌倉妙本寺 総門、参道)
時政は、自邸にて甲冑を着け、中野四郎・市川行重の優れた弓の射手を両方の小門で待ち構えさせ、天野民部入道蓮景(遠景)・新田忠常腹巻を付け西南の脇との内に待ち構えた。能員が惣門に入り、廊の沓脱(くつぬぎ)に上がり妻戸を通り、北面に参ろうとする。その時、待ち構えていた蓮景・忠常は能員の左右の手を掴み竹山の麓の竹藪の中に引き倒して躊躇なく誅殺した。時政は、出井(いでい:居間)に出てその謀殺を注視していたという。能員の従者は宿所に逃げ帰り、事情を告げる。事情を聞きた能員の一族・郎従は小御所と呼ばれる一幡の館に立て籠った。新田忠常は、伊豆国田方郡新田郷の住人で工藤氏の一流で、頼朝挙兵時から従軍し、兄の忠義は石橋山で戦死していおり、頼朝から信任を受けていた。多くの戦いに従軍し、勲功を上げ、北条氏に近かった。曽我兄弟の仇討においては曽我祐成を討ち取り、剣豪の勇士の名を世に馳せた。頼朝死後は、頼家にも信任を受け、『保暦間記』『北条九代記』には頼家の長子一幡の乳母夫になったとされる。『愚管抄』によると、新田四郎という者は、頼家に特に重んぜられた側近の物であったが頼家までがこういうことになろうとはつゆ知らず、さきには能員を刺殺したのであった。ところがこんなことになったので同月五日、幕府の中核をなす頼家の邸の東西にあった侍所に、二人並んで出仕していた義時と立派に戦って死んでしまった」とあり、頼家の一幡への家督譲渡が知らされず能員を討ち、後に知ったために侍所で義時と戦い討たれたとされる。『吾妻鏡』の記述とは少し違う。
(写真:鎌倉妙本寺 中門、祖師堂)
その日の未の三刻(午後二時頃)、謀反のため北条正子が、比企一族に追討の命により軍勢が出され、その中には北条義時、・泰時、平賀朝政(朝雅)、畠山重忠、三浦義村、和田義盛も加わり、そして、秀郷流の小山朝政・宗政・朝光等もここに加わっていた。ここに北条を核とする権勢が集約され、秀郷流藤原氏も北条に従っている。比企一族の比企三郎・四郎時員・五郎。能員の猶子・河原田次郎、笠原親景、中山為重、糟谷有季は死をも恐れない防戦をおこなう。戦闘は申の刻(午後四時頃)まで続いた。多勢の幕府御家人により親景らは、その軍勢に対抗できず屋敷に火を放ち、一幡の前で自害、六歳の一幡も逃れることは出来なかった。能員の嫡男の比企余一兵衛尉は、姿を女人に変えて戦場を離脱したが、途中で加藤景廉に首を獲られ、比企一族は滅亡した。
(写真:鎌倉妙本寺 比企一族の墓)
この謀殺は、北条時政の武士であるまじき行動のだまし討ちである。時政は、初代執権とされるが、頼朝恩顧の御家人を誅殺させ、権勢を手中に収めたが、後の畠山重忠の乱、牧氏事件等により失脚し、伊豆に隠蔽されている。三代執権の泰時の代に、父・義時の供養、叔母の政子の供養は行われているが、その後の時政の記述は無い。時政のこれらの誅殺は、北条執権体制の汚点とされ、北条執権体制を継続させるために、時頼を伊豆に隠蔽させたと考えられる。また、政子・義時の執政を正当化させるために北条氏による編纂の『吾妻鏡』に比企の乱を記述された。その点、時政を悪人としてとらえるならば、事実を曲筆する事も無く事実を記された可能性は高いように考える。比企能員は、時政邸に無防備で出向いた事は、「仏事結縁のため、また譲与などの事について相談されたいのだろう」と一幡の存在と後の幕府の体制を見計らっていたと考えるべきなのではないだろうか。
(写真:鎌倉妙本寺 袖塚)
翌三日、一幡の遺骨を探したが多くの死骸が混じり見つける術はなかった。しかし、一幡の乳母が最後に菊紋の小袖を召されていたと言い、ある死骸の横に、わずかな焼け焦げた小袖が残っており、菊紋がはっきりと見られた。源性は骨を拾い上げ首にかけて高野山へ向かったと言う。比企家の屋敷跡に一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、後に日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として鎌倉市大町の長興山妙本寺が創建されたという。境内に一幡の袖塚と比企家の墓、そして若狭局の霊を慰める蛇苦止堂が建立されている。例年九月一日、蛇苦止堂で例祭が行われている。『愚管抄』では若狭の局が一幡を抱いて逃げたが十一月に北条義時の手勢により殺されたと記載されている。 ―続く
(写真:鎌倉妙本寺 蛇苦止堂