坂東武士と鎌倉幕府 八十五、北条時政と比企能員 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 東国坂東武士の成り立ちで、朝廷から東国・坂東の地を武士の独立を目指した平将門と桓武平氏は、承平の乱で敗れた。将門に近いとされる伯父にあたる良文流の子孫は、河内源氏の臣従として東国・坂東の地に残る。将門に敵対した従兄弟の平貞盛は、伊勢平氏として朝廷に仕えた。後の平忠盛・清盛の祖である。また北関東では、藤原北家魚名流の藤原秀郷の流れが主流であり、当時は河内源氏の傍流・足利氏、新田氏においては小さな勢力であった。十三人の評定衆の内、文官・大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政の四名。桓武平氏良文流・北条時政、義時、三浦義澄、和田義盛、梶原景時の五名。藤原北家魚名流が比企能員、安達盛長、足立遠元、八田知家の四名である。梶原景時は、幕府体制側として文官に准ずる立場と考えれば、武士の御家人は、良文流四名と秀郷流四名と均衡する。東国の独立的立場を追求してきた東国坂東武士は、頼朝の死後において両者が対峙する形になったことが興味ぶかい。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源頼家像 北条時政)

 頼朝の功績を継いだ嫡子・頼家に対し、頼朝の舅である北条時政は、北条氏の権威の継続。比企能員は、頼家の乳母夫と頼家の子一幡の外戚の立場から頼家を擁立させてその地位を掌中に収めようと動いていく。まさしく、過去の承平の乱の確執と既得権益の維持と両者の権威拡大の対立と言わざるを得ない。しかし実際、比企能員を『吾妻鏡』から読み取ると能員の娘が頼家の側室となり若狭局とし頼家の長子一幡を生み、頼家から長子・一幡に正当な将軍継承を唱えたと考える。能員においては将軍家外戚となり権勢を振るったという説もあるが、温厚で人格者であったとも言われる。頼家が北条氏との関係が悪化する中、梶原の景時が亡くなった後、唯一比企氏を頼らざるを得なかったと考えられる。しかし、頼家の妻は若狭局、一品房昌寛娘、辻殿、源義仲娘等が挙げられ、『吾妻鏡』では、頼家の室は辻殿と妾を若狭局としているが、若狭局との子・一幡は嫡子に等しい扱いが記され、また後の実朝暗殺する公暁は辻殿の子と尊卑分脈に記されている。他の系図において相違があるため正室不祥として扱われる。北条時政においては、一幡が将軍につけば、比企が将軍の外祖父となり、御家人・家司筆頭による立場と権威が失落してゆく。時政・北条氏は、あらゆる手段を用い政争を繰り広げていくことになった。

 

 頼朝生前時から御家人統制を担っていた侍所別当で頼家の乳母夫である梶原景時の讒言に対して三浦義村、和田義盛等諸将六十六名の連判状により景時の排斥が行われ、失脚して鎌倉追放になった。京の公卿を頼り、上洛中に駿河国在地の武士・吉香友兼に討たれ一族は滅亡している。この際の連判状には、北条時政・義時の名は無かった。その理由としては定かではない。しかし、頼家の乳母夫である梶原景時の将軍頼家の裁断がどう転ぶかわからない中、また讒言の主要的役割を担ったのが時政の娘で北条政子の同腹の妹・阿波局である事から、中立を装い、また関係に及ばない立場をとり動かなかったのではないかと考える。そして駿河国に影響力を持つ時政の命により駿河国在地の武士・吉香友兼に景時を討たせたのではないかと。景時を失った十三人の評定衆は十二人となり、幕府文官派、北条方、比企方がそれぞれ四人と分れるが、文官派にとっては、北条政子の存在は大きかった。当時、家主が亡くなると嫡子がその後を継ぐが、故家主の正妻の存在が大きく影響する。頼朝の斬罪を救った清盛の継母・池禅尼や比企尼の存在が物語る。そのため、文官たちは北条政子と北条氏に近づき、次第に北条時政の権限が上がった。正治二年に時政は、源氏一門以外で初めての国司として遠見守に任じられている。

 

 建仁元年(1201)正月から五月にかけ梶原景時の与党であった越後平氏の城氏が鎌倉幕府の景時への対応に不満を表し、建仁の乱を起こす。城長茂は幕府軍に討伐され、甥の資盛が越後の国鳥坂に鳥坂城を構えるが佐々木盛綱率いる幕府軍に鎮定された。その後、資盛の行方は不明となり、承平の乱で将門の勝利した平貞盛の弟・繁盛を祖とする常陸平氏大掾氏の傍系で名門越後平氏は史上から完全に姿を消した。そして翌年の建仁二年七月二十二日、従二位に叙され征夷大将軍に宣下される。そして建仁三年五月十九日に叔父の阿野全成を謀叛の咎で捕縛。同月二十五日、阿野全成を常陸国に配流させ、同年六月二十三日に八田知家が頼家の命を受け下野国で全成を誅殺させた。頼家はこの三月頃から病気になり、すぐに回復したが、この事件の後に七月半ば過ぎから再び急病にかかり八月には危篤状態となる。

 

 『吾妻鏡』には、建仁三年(1203)七月二十日、二代将軍頼家が重病になり、翌二十三日には危篤状態に陥る。建仁三年八月二十七日条では、「将軍家の病気が危険な状態であるため、ご譲与の措置があった。関西三十八ヵ国の地頭職を弟で十歳の千幡(後実朝)に譲与、関東二十八ヵ国の地頭ならび惣守護職(頼朝が任じられた日本国総追捕使で軍事・警察権を管掌する)を長男の六歳になる一幡に与えられた。家督(一幡)の外祖父である比企判官能員は弟千幡に譲り渡したことを秘かに腹立たしく思い外戚の権威を笠に着て、独歩の志を心中に抱き、叛逆を企て、千幡君と外戚以下を滅ぼそうとした。」と唐突な記載がある。また九月二日条で比企能員は病状の頼家に「北条殿を、ともかく追討すべきです。そもそも家督(一幡)の他に、地頭職を分割されれば、権威が二つに分かれ、挑み争うことは疑いありません。子のため弟のため、静謐(せいひつ)を求めてのお計らいのようではありますが、かえって国の乱れを招く元です。遠州(時政)の一族が存在しては一幡の治世が奪われることは疑いありません」。と道理に合った説明を行っている。しかし、この話を北条正子が障子を隔てて秘かにこの密事を聞き、時政に知らせた。

 

 北条時政は、大江広元の邸宅に向かい、広元に相談する。

「近年、能員が権威を振りかさして諸人をないがしろにすることは、世に知られている。そればかりか将軍が御病気である今、意識のはっきりしない機会を狙い、偽って将軍の命と称し叛逆の陰謀を企てようとしていると、確かに報告は聞いた。この上は、まず能員を征伐すべきであろうか。どうであろう」。

広元が答え申した。

「幕下将軍(源頼朝)の御時より、政洞に助力してはおりますが、兵法については、是非をわきまえておりません。誅殺するか否かは、お考えにお任せします)。

時政はこの言葉を聞くと、すぐに座を発ち、天野民部入道蓮景(遠景)・新田忠常を共とし、荏柄者の前でまた馬を止めて、両人に命じていった。

「能員が誅殺を企てたので、今日追討する。それぞれ討ち手を勤めよ」。

蓮景が躊躇なく答えた。

「軍勢を派遣する事は出来ません。御前に能員を招き寄せて誅殺されるのがよいでしょう。あの老人なら何の問題も無いでしょう」。 ―続く