坂東武士と鎌倉幕府 八十四、阿野全成の誅殺 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 阿野全成は、源頼朝の異母弟であり、源義朝の七男であり、母は常盤御前で義円、義経は同母弟である。『平冶物語』では、平治の乱後(平治元年1159)、敗戦を知った常盤は幼い全成・今若八歳、義円・乙若六歳、義経・牛若一歳を連れて雪の中の都を出奔して伏見に逃れた。老婆の温情により助けられ、生国か親戚筋のいる大和国に着く。しかし、都に残った母が平家に捕らえられたことを知り、常盤は都に戻り平清盛の下に出向き、母の助命を乞いをした。

「子供たちが殺されるのは仕方のない事ですが、子供たちが殺されるのを見るのは忍び難く、先に私を殺してください」。

と懇願する。清盛は常盤の言葉に心を動かされ頼朝が助命されたことを理由に今若、乙若、牛若を出家させることで助命した。

 

 『平冶物語』の唱導的説話の下りである。全成は醍醐寺にて出家させられ、治承四年(1180)の以仁王の令旨が下されると寺を抜け出し東国に下った。『吾妻鏡』治承四年十月一日条に頼朝が挙兵し、石橋山の戦いで敗北した直後の八月二十六日、頼朝の臣従の佐々木定綱兄弟に会い相模国高座郡渋谷荘に匿われる。そして十月一日に下総国鷺沼の宿所にて対面した。兄弟の中では最初の出会いであり頼朝は泣いて志を喜んだと記される。全成の同母弟・義円は、治承五年(1181)伯父の源行家の挙兵に参加するが、尾張墨俣川で平重衡の軍と対峙し討ち取られている。義経は、寿永の乱での源平合戦の功労者であるが、謀反の罪を掛けられ、奥州に逃れるが藤原泰衡に攻められ自害した。全成は、僧侶のまま武蔵国長尾寺(現川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、特に目立った行動は、記されておらず、治承四年十一月十九日条にて頼朝の妻・北条政子の妹である阿波の局を娶っている。『平治物語』で雪中の母子四人が出奔した事は全成にも残される記憶であったと思うが、同母弟の義経が謀叛の嫌疑をかけられ自害した事で、兄の頼朝には、逆らう事も無く沈黙を続けた。

 

 頼朝死後は妻の舅である北条時政に近づき、妻の阿波局は千幡(実朝)の乳母となった事で、北条氏と頼家一派との対立が浮上してきた。建仁三年(1203)五月十九日、頼家は武田信光を遣わし、頼家は叔父にあたる阿野全成を謀反人の咎で捕縛、御所にて監禁する。翌二十日、頼家は比企時員を尼御台・政子に遣わせ申させた。

「法橋(阿野)全成は、謀反を企てたので生け捕りにしました。全成の妾である阿波の局がお仕えしているでしょうか。早く身柄を賜りますように。尋問する事がありますので」。

政子は驚き、

「そのような事は、女性に知らせるはずがないでしょう。しかも全成は去る二月に駿河国へ下向した後、阿波局に連絡を取っておらず、全く疑わしい所は無い。」

と返事し、妹の阿波局の逮捕を拒否した。

 

 同月二十五日、阿野全成を常陸国に配流させ、同年六月二十三日に八田知家が頼家の命を受け下野国で全成を誅殺させる。この様な事件が続発する中、御家人の中でも頼家に反発するものが多くなった。頼家はこの三月頃から病気になり、すぐに回復したが、この事件の後に七月半ば過ぎから再び急病にかかり八月には危篤状態となった。

梶原景時の乱は、結城朝光の頼朝の時代を偲ぶ思で語ったことが、讒言の対象となり、この阿波局が朝光に景時の讒言を話したことから始まっている。『吾妻鏡』を読むと梶原景時は讒言者の汚名を着せられているが、景時も将軍頼家の乳母夫で、この時期、北条方にも比企方にも付かず、むしろ幕府文官と同様に見るのが必然と考えられる。幕府鎌倉殿の後見として大きな一役を担っていたと考えられ、『愚管抄』において慈円が、「景時を死なせたことは頼家の失策である」と評している(梶原景時の変)のは道理であう。私見であるが、景時を失脚させたのは北条時政による陰謀とされているが、実朝の乳母である阿波局が北条時政、政子と義時により実朝を三代将軍にする為の指示に従ったのではないかと。

頼家の後見役の梶原景時を誅殺し、そして頼家の最大の後見である比企員能を倒せば頼家は無力になる。そして、頼家が危篤状態になったこの時に相続問題と幕府重臣の中での北条対比企、良文流坂東平氏と藤原秀郷流との力関係を巡る計略が始まり、次第に策略が渦巻いてゆく。 ―続く