北条時政は畠山重忠の謀殺を行う手始めとして嫡子とされる重保を手にかける。畠山の鎌倉での居館は、今小路の寿福寺の鎮守社・巽神社の周辺にあったと考えられる。
『吾妻鏡』元久二年(1205)六月二十日条、夕方になって畠山重保は鎌倉に到着した。稲毛重成が呼び寄せたという。同月二十二日、鎌倉で謀反が起こったと呼び出され、重保は従者三人を引き連れて由比ヶ浜に即刻出向いた。そこで重保は謀反が自身に向けられていることを知り、時政から誅殺の命を受けた三浦義村の手勢により由比ヶ浜で、だまし討ちにより謀殺された。
三浦義村の出生は未詳であり、永暦(1160)から仁安(1170)の間に生まれたと考えられ、仁安三年(1168)との説がある。『吾妻鏡』寿永元年(1182)八月十一日条で、源頼朝正室(北条政子)の安産祈願のために、伊豆・箱根の両権現と近国の寺社に奉幣使を立てた記載により安房東条庤(天津神明宮)へ遣わされた使者として「三浦平六」の名が記されている。これが義村の初見であり、元禄元年(1184)八月に源範頼を総大将とする西国・平家追討軍に父三浦義澄と共に従軍した。
高橋英樹氏が、『源平盛衰記』三十七巻に記載される追討軍の攻勢により参加資格が十七歳以上と残されており、義村がこれ以前に従軍した形跡がなく、この年に十七歳になった可能性が高いとして生年を仁安三年説と唱えている。仁安三年説を取ると、北条義時は長寛元年(1163)の生まれで、義時は義村より五歳年上に当たる。重忠が長寛二年(1164)の生まれとされ、義村は重忠より四歳年下だったと考えられる。この五歳前後の年齢差は当時としても大きく、同年代としながらも役割は下端だったと考えられ、義時には、頭が上がらなかったと推測される。畠山重忠は、頼朝挙兵により石橋山の合戦では平家に与し、治承四年(1180)、母方の祖父・三浦義明を衣笠山で討っている。しかし頼朝が下総から常陸国に入る際に参陣して忠誠を誓った。頼朝は三浦義澄に父の敵である忠重の件を了承させた。重忠と義村は、互い懇意にしていたとされるが、義村は当時十二歳前後であったと考えられ、頼朝の言いつけを父義澄から聞かされたか、自身がその場にいたかは不明であるが、重忠を祖父の仇として討つことが宿願だったかもしれない。
司馬遼太郎は『街道が行を行く・三浦半島記』で「義村は軽忽なところがあった」と記述している。「軽忽」とは、軽々しい事、軽はずみな事、ばかげた事、とんでもないことを意味する。三浦の惣領であった義澄も亡くなり、義連も建久三年(1203)に亡くなったとされ、三浦の勇者は北条の臣下の如く、あらゆる事件に関与していく。義村に知略・策謀者の名は有るが、その関与により三浦氏の真価が問われる。そこに「軽忽」という言葉が当てはまる。三浦氏の翳り行く灯の如く、後に義村後を継いだ嫡子・泰村は五代執権北条時頼により滅ぼされている。
畠山重忠は鎌倉に変事があったと知らされ、急遽鎌倉に駆けつけるが、ここでも尼将軍政子の重忠追討の下知が下された。大手の大将軍は北条義時、先陣は、畠山と同族の葛西清重、後陣は堺常秀相馬常胤等、その他足利義氏、小山朝政、三浦義村、結城朝光、宇都宮頼綱、八田知重、安達景盛、河越重時、江戸忠重等、坂東の御家人のほとんどであった。また関戸(現、東京都多摩市関戸)の大将軍は北条時房、和田義盛であった。畠山重忠は百三十騎で鶴峰(現神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰)に陣を構え重保が今朝誅殺され、その上軍兵が襲来する事を聞き取った。近習の榛沢成清は重忠に進言する。
「聞くところでは、うちでは幾千万騎か知れず、わが軍は全くその勢いに対抗できません。早く本拠に撤退し、討ち手を持って合戦を行うべきです」。
重忠は成清に言った。
「それは適当ではない。家を忘れ、親を忘れるのが武将の本意である。だから重保が誅殺された後、本拠を顧見る事は出来ない。去る正治の頃、梶原景時は一宮の館を撤退し、途中で殺されてしまった。しばしの命を惜しむようであり、またあらかじめ陰謀の企てがあったようにも思えた。このように推察されては面目がなかろう。まことに景時の例は後者の戒めとすべきである」。
と告げると、先陣を切って弓馬放遊の旧友安達景盛が七騎の郎従を率いて討出た。
重忠は、その景盛の姿を見て、
「どうして感心しない事があろうか。重秀(重忠の長子)は景盛に対して命をすてて戦え」と言い放った。景盛の郎従梶家季以下を討ち取った重忠は弓矢の戦い、刀剣の戦いは時間がたっても勝負がつかず、申の刻も終わろうとしていたころ愛好季隆が放った矢により落命した。
畠山重忠は享年四十二歳で、幕府軍の大軍に二俣川(現横浜市旭区)で遭遇し、勇散に激戦の末、敗れ散った。武蔵の武士の首領であり、坂東武士の鑑と称され、頼朝、幕府に忠誠をつくした畠山氏は滅びた。
幕府軍の総大将であった北条義時は重忠の軍勢は平服で僅か百余騎の兵で、謀反ではなかった事に涙を流して時政に報告している。
(写真:ウィキペディアより引用 畠山重忠像)
『吾妻鏡』では、同月二十三日条、「未の刻に相州(北条義時)以下が鎌倉に帰られた。遠州(北条時政)が戦場の事を尋ねられると、義時が申された。「重忠の弟・親類はほとんど他所にいて、戦場に赴いたものはわずか百余人でしたので(重忠が)謀反を企てたと言うことはすでに偽りでした。あるいは讒言によって(重忠は)誅殺されたのではないでしょうか。とても哀れです。首を切って陣に持ってきたのを見ましたが。長年顔を見合わせて親しくしてきたことが忘れられず、悲涙を抑えることが出来ませんでした。時政は一言も仰らなかったという」。これらの『吾妻鏡』の義時の記述が不可解に思われる。しかし、『吾妻鏡』が北条氏により編纂されているため、義時の行動を素直にみるには問題が残る。
重保の墓は、若宮大路一の鳥居の由比ヶ浜に向かう脇に宝篋印塔が祀られている。また、今小路の巽神社は畠山重保の屋敷の傍に建立されていた。社の北西にある観音山の頂には「望夫石」と呼ばれる大岩があったらしい。畠山重保が北条氏の策謀により由比ヶ浜で討たれた際、重保の妻がこの岩から由比ヶ浜を望み、悲嘆にくれて亡くなり、石になったという伝説が残されているらしい。
北条政子と継母・牧の方の関係上、治承四年の亀の前事件後、良好な関係ではなかったと考えられる。『吾妻鏡』では、義時が畠山重忠の謀殺に反対しているように義時を美談的に記載されているが、重忠を二俣川で討ち、その後の謀反では無かったにもかかわらず、所領を功勲のある御家人に賜っている。この事件により時政と政子・義時は政治的対立を深めたと言われているが、政子の重忠追討の下知が不可解である。全てが、あまりにも早急な対応と対処に疑問を持つ。政子による実朝の将軍の安寧と北条氏による執権体制を行う為の謀略と考えざるを得ない。弟・義時に北条家を継がせ、二代執権職を与えることで、常に義時を動かしたとも考えられる。そして、頼朝の家臣として仕えていた頃の義時とは変わっていた。 ―続く