坂東武士と鎌倉幕府 八十一、頼朝の死 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 頼朝の幕府運営は建長五年(1194)から安定期に入り、朝廷との協調路線をより強固なものとして行く、三月に東大寺大仏の再建ため砂金二百両を京都に奉り、七月に東大寺供養の日時が明年正月に決まるが頼朝延期を願い、建久六年二月頼朝上洛の途に就く。頼朝は、政子と子女、大姫・頼家をこれに随行させ三月に入京。六月関東の途についている。また、鎌倉においては、同年の四月鎌倉中の道路を造営・整備を行い、東国における武士の権威を知らせしめるため、行政の中心地としての鎌倉を確立させていた。東国・坂東の武士は、多くの所領と安定を教授されるが、本来の朝廷からの武士の独立には遠く、その思想は頼朝により所領の獲得と安定にすり替えられていたと言えよう。

 

 建久六年(1195)二月に東大寺落慶供養で頼朝が政子・大姫・頼家を伴って上洛の途につく。三月に入京した際に土御門道親や高階栄子(丹後局後白河天皇の側室)に近づいている。三月二十九日に頼朝は、丹後局を招き政子と大姫に対面させた。その時、砂金三百両、三十反白綾の贈り物とし、従者達までも引き出物を送ったとされ、大姫の入内画策を行っている。親幕派の九条兼実は娘・任子を既に入内させていたため、頼朝は距離を置き、九条兼実には馬二頭であったとされる。頼朝の対応の違いを示しており、その後、兼実への支援を打ち切った。佐藤進一氏は、晩年の頼朝が入内させた大姫が生んだ後鳥羽天皇の皇子を将軍に推戴し、自分や嫡子・頼家が補佐するという構想を抱いていたではないかとしており、自ら樹立した史上初の武家政権を、伝統ある公卿政権の王権によって権威づけようとしたと考えている。しかし、建久四年(1193)の富士の巻狩りを行った事は、東国において御家人たちに対し将軍としての示威行為と共に将軍後継を頼家に示したものと考え、また今回の上洛に頼家も同行させているため朝廷においても嫡子であることを認知させようとしたと考えられ、佐藤氏の考察に疑問を持つ。私見であるが、大姫の入内で皇子が生まれれば、外祖父として大きな権力が生じ、公武協調体制のもと東国において朝廷からの一層の権威を得、朝廷への影響力を高める事で東国での自身の権威が担保する事が頼朝の構想だったのではないかと考える。頼朝と御家人との主従関係は恩恵を与えなければ気薄な物であり、頼朝の粛清等によりそのことが垣間見られる。また、自身が樹立した東国の武士政権、将軍職を放棄する等は考えられない。

 

 土御門(源)道親は、丹後局の連れ子・在子を養女にして入内させた。在子・承明門院は、建久六年(1195)末に為仁を産む。門閥重視の故実先例に厳格な兼実の施政は中・下級貴族から反発を招き、兼実の入内させた任子は皇子を産むことは無く、延臣の大半から見切りを付けられ、翌建久七年十一月の政変で源道親は兼実の関白の地位を奪い失脚させる。再び兼実は公に復帰する事は無かった。九条兼実『玉葉』の建久二年(1191)四月五日条に「或る人伝はく、頼朝卿の女子、来る十月入内すべしと云々」とあるが、聞き伝えられたことを兼実は日記に記している。

 

(写真:京都石清水八幡宮、大阪四天王寺)

 建久八年(1197)七月十四日に大姫は、死去する。人質であり、許嫁であった木曽義仲の嫡子義高が殺害され、義高が待つ浄土のもとに向かった。享年二十歳であった。『吾妻鏡』では、建久六年(1195)の十二月まで記述で、その後の正治元年(1199)二月まで欠巻しており、記載は無い。『承久記』に建久八年(1197)七月に二十歳の若さで亡くなったとし、不憫な娘の死を悲しんだ政子は、死を覚悟したと記している。また、『北条九代記』には、許嫁(いいなずけ)との仲を裂かれた姫が傷心の内に亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原などの多くの人々がこの谷に野辺送り(故人のご遺体を火葬場または埋葬地まで運び送ること))したことが記されている。この時代に翻弄された女性の一人である。大姫の墓は長勝寿院にあったとも、また大船の常楽寺の裏山に姫塚が大姫の墓ともいわれいわれ、その山頂に義高を祀る木曽塚があるが定かではない。また、大姫の守り本尊が、亀ヶ谷辻の岩船地蔵堂に安置されている地蔵菩薩であると言われており、その台座が船形をしていることから岩船地蔵堂と名がついた。

 

(写真:鎌倉市大船の常楽寺、鎌倉市亀ヶ谷辻岩船地蔵)

 大姫が死去すると三幡を次なる候補とした。三幡は女御(にょうご:天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した)の証をあたえられ、正式の入内を待つばかりとなりとなっており、頼朝は朝廷の政治に対し意見を具申するために上洛を予定して三幡を同行させるつもりであったとされる。『愚管抄』において大姫の死と次の娘(乙姫)を連れて上京したいと、一条能保の子・高能に漏らしたという。しかし建久十年(1199)一月十三日に入内を見る事無く頼朝が急逝したため、中止になっている。 

建久九年(1198)十二月二十七日、頼朝は、稲毛重貞が亡くなった正妻(北条時政の娘)の供養のために橋を建立し、その供養に出席した。そして、相模川で模様された橋供養からの帰路体調を崩し落馬したとされる。この橋供養は、稲毛重貞(後の畠山重忠の乱において幕府に讒言した人物)が時政の娘婿で、その正妻が亡くなり供養のために橋を建立したという。その正妻は北条義時の同腹の妹であり、義時も供養に参列していた。正治元年(1199)正月十三日、落馬からわずか十七日で頼朝が急去する。享年五十三歳だった。

 

(写真:常楽寺裏山の姫塚と木曽塚)

 死因は落馬とされるが、当時の武士が落馬する事は大いに恥じる事であり、年齢からみて何らかの病気による意識障害が発症し、落馬したと考えられる。落馬の要因の高い物として、脳梗塞等による一過性脳虚血発作、心筋梗塞による意識障害で落馬したと考える。また、頼朝は酒の燻製が好物であったとされ、塩分濃度の高い物は高血圧、心血管障害、糖尿病の病気が発生しやすいとされ、『猪熊関白記』には、「頼朝は重い飲水の病となり、その後亡くなったという噂を聞いた」とある。院水とは糖尿病の事であり、糖尿病の症状として血管障害、神経障害、網膜症、腎症、感染症が挙げられる。他には、『吾妻鏡』において歯の痛みに苦しんでいる記載があり、歯周病から口腔内に雑菌が増え嚥下性肺炎に陥ったとする説もある。そして落馬により脊椎損傷が起こり、嚥下困難から嚥下性肺炎に落ち云ったとする説もある。

 『承久記』において建久(1199)正月、源頼朝の死の間際、重忠を呼び寄せ、子孫を守護し幕府の後事を託したと記されており、それが真実ならば、話すことが出来たために重度な脳梗塞が死因から外される。『猪熊関白記』や他の資料を基に考えると、糖尿病による高血糖のために意識障害を起こし落馬したのではないかと考える。そして、歯周病などを患っていたと考えて、また落馬による脊椎損傷が発症して嚥下困難になり、糖尿病による易感染状態のため嚥下性肺炎を起こし、死に至ったのではないかと考える。もう時代は、頼朝を必要としていなかった。

 

(写真:鎌倉市源頼朝の墓、白幡神社前)

 頼朝が建久十年一月十三日に死去した後も、三幡の入内工作は続けられるが、同年三月に高熱を発して病に倒れる。『吾妻鏡』正治元年(1199)六月三十日条、午の刻に姫君三幡は死去した。御年十四歳。頼朝の死から五か月半後の事であった。尼御台所(政子)の嘆き、諸人の悲観は記しれきれない。乳母夫である掃部頭(かもんのかみ)中原(藤原)親能が出家を遂げ、定豪法橋が戒師となった。今夜、戌の刻に姫君を親能の亀ヶ谷堂の傍らに葬ったと記されている。 ―続く