坂東武士と鎌倉幕府 八十、頼朝の粛清 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 建久四年(1193)六月五日に曽我兄弟の仇討の知らせを聞いた八田知家は、参上を試みるが、常陸の国で互いに権勢を争っていた多気義幹に身分の卑しき者を義幹の下に遣わした。

「知家が軍勢を用いて義幹を討とうとしている」と虚言を言わしめ、義幹は防戦の用意を整え多気山上に立て籠もった。国中は騒然となり、その後、知家は雑色を遣わす。

「富士野の御旅館で狼藉があったとの風聞があるので只今参るところである。同道されよ。」と伝え、

「思うところがあって参らない」と義幹は答えて、ますます防御の支度をしたという。

同月十二日八田知家が多気義幹に野心がある旨を頼朝に討って申した。頼朝は驚き、義幹を召すため使者を遣わした。

同月二十二日、多気義峰が召し出され、三善康信・藤原俊兼らを奉行として八田知家と対決が行われた。知家は、両奉行に述べている。

「先月の祐成の狼藉の事を今月四日に知り、参上しようと義幹を誘いましたが、義幹は一族郎従らを集めて多気山城に立て籠もり。叛逆を企てました」。

義幹は陳謝したが内容は不分明であったが城郭を構えて軍士を集めたことは認め、言い逃れる事は出来なかった。そのために常陸国筑波郡・南郡・北群などの所領は没収され、そして身柄は岡部権守泰綱に召し預けられたという。所領はそのまま今日、稲葉前司中原広元が奉行し、馬場資幹が賜った。幕府成立後、同じ御家人同士が国中で権勢を争う中で行われたのは初めてであり、その後に頼朝の粛清が始まる。

 

(写真:ウィキペディアより引用 源範頼像(横浜市金沢区太寧寺蔵)、源範頼墓(静岡県伊豆市修善寺))

 『保暦間期』には、建久四年(1193)五月二十八日の曽我兄弟の仇討に宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わり、頼朝の弟・範頼は、嘆く政子に「範頼がおります。何事も御心配いりませぬ」と慰めたとある。この発言により範頼は、頼朝に謀反を抱いたとしている。『吾妻鏡』では、この事は記載されておらず、後の八月二日条に唐突に頼朝の下に謀反を否定する範頼の起請文が届く記載が残されている。

 『吾妻鏡』同年八月二日条にて、参河守頼家が起請文を書き頼朝に献上した。これは叛逆を企てていると頼朝に聞き及ばれ尋ねられたからである。その起請文に参河守源範頼と記されていたため、頼朝は非常に過分な考えであるとして、頼家の使者である大夫属重能を召して、この事を申した。

その事に対し重能は答えた。

「参州(範頼)は、故左馬守(源義朝)の御子息です。(頼朝)の御舎弟であると存じておりますのは、もちろんの事。したがって去る元暦元年の秋の頃、平氏征伐の御使者として上洛された時、舎弟範頼を似て西海道追討氏に派遣すると、(頼朝の)御文に乗せて奏聞されましたので、その旨は官符にも載せられております。全く勝手な行為ではございません」。

その後、頼朝からの言葉は無く、重能は退室した。事情を範頼に告げたところ、範頼は大変狼狽したとされる。

 

 同月十日夜範頼の家人当間太郎が頼朝の寝所の下に潜み、気背を感じた頼朝は結城朝光らに捕縛させた。当間太郎尋問を行う。

「起請文の沙汰がなく、しきりに嘆く参州(範頼)のために形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と当間太郎が答えた。

次いで範頼に問うと「存じませぬ」と答え陳謝の言葉を尽くすが、頼朝は疑いを確信する。十七日に範頼は伊豆国の修禅寺に下向し、帰参の時期は定められず、全く配流であった。当麻太郎は、本来は処刑すべきところ大姫の病気のため刑を軽くしたとされ、薩摩国に配流される。

 『吾妻鏡』には範頼のその後について一切の記載はなく、『保暦間記』『北条九代記に』等で誅殺されたというが、それらを記す資料は、範頼が伊豆下向後の百年以上経過する十四世紀の物である。範頼誅殺を裏付ける資料は無く、子の範圓、源昭は出家をしているが、孫の吉見為頼が吉見氏を称し御家人として残っており、範頼の誅殺は定かではない。

 

 範頼の伊豆下向の一週間後の二十四日には、相模の有力御家人の大庭景義、岡崎義実が、老齢のための突然の出家が記載されている。「とりたて思うところがあったわけではないが、それぞれ年老いたのでお許しを受けて出家したという」。二年後の建久六年(1195)二月九日に景義は、「義兵を挙げた当初から大功を尽くしてきたところ、疑いを受け鎌倉中から追放された後、愁鬱のまま三年を過ごしてまいりました、今や余命は無く後年の事は望みがたいので、早く御赦しに預かり、この度の御上洛の供奉の人数に加わり、老後の誉れとしたいと思います。」と書面を奉じ、許され、そればかりか上洛の供奉するように仰せに預かっている。景義出家後に嫡子景廉が家督を継いでいるが、その後の記載は無く、北条義時の有力御家人の粛正に挙げられる建保元年(1213)の和田合戦においいて和田方に付き消息を絶ったか、失脚したと推測される。

 岡崎義実は、正治二年(1200)、余寒が冬より甚だしい日の三月十四日、鳩杖をついて尼御台(政子)の御亭に参り申した。「八十の老衰で、病と愁いとが合わさって、余命は差し迫っています。それだけではなく、何事においても貧しく、生涯頼みとするところはありません。幾ばくも無い恩地も佐奈田義忠(義実の嫡子、石橋山で討死)の没後を弔うために仏事に寄進する志があり、残っている場所はわずかに針が立つ程度の物です。これでは全く子孫の安堵の計らいにはならないのでしょう。」と泣いて愁い申した。政子は哀れみ、

「義実は石橋山の合戦の頃、非常に大功を挙げた者である。老後も最も賞翫(しょうがん:珍重する、尊重する)されて、早く一所を充て賜るように。」と、二代将軍・頼家に申したとされる。その三か月後の六月二十一日に義実は八十九歳で死去した。義実の次子で土屋宗遠の養子になっていた義清もまた和田合戦にて和田方に付き、討死している。

 

 範頼の粛清に連座したものか、何らかの事件により失脚したと推測され、これらの頼朝の粛清は、「曽田兄弟の仇討」が、他の首謀者により政変を意図したものであったと捉える説もある。また鎌倉での挙兵時以降の御家人を重用する頼朝に対し、挙兵時から従っていた古参の御家人の不満が反発となり、政変を意図した物であった可能性もあり、何らかの反頼朝勢力が出現していたとも推測される。そして同年十一月二十八日、源氏一門の安田義資が梟首され、翌建久五年八月十九日には、義資の父・遠見守義定も叛逆の企てがあったとし梟首された。源家一門であり、東海道の要衝の地を掌握する義定・義資の存在は、頼朝にとっても、後継の嫡子頼家にとっても危険で排除すべきものだったと言えよう。 ―続く